また来る夏に・深夜 (1)

 ぽちょん。湯気立ち込めるお風呂場で、 結露した雫が天井から水面に落ちた。なんだか間の抜けた音。そして、今の私も大概間抜けな格好をしている。
 浴槽の縁にうなだれる。手で支えてないと崩れ落ちてしまいそうだった。
 
「うぁぁ……」
 
 意味をなさない唸りが漏れる。どうして私はあそこであんな大胆なことを抜かしたのか。いや、分かってる。雰囲気に流されたのだ。だって、労わるにしたってもっと他の方法はいくらでもあったはずなのだから。
 
 何時に帰ってくるかは分からないけれど、とりあえずお風呂を綺麗にしておこう。そう思うまでは良かった。浴槽を洗って、普段はサボりがちな棚や床までピカピカにして、給湯ボタンを押してから、徐々に私の理性が戻ってきた。
 
 ――いや、私何言ってんだろうね!?
 
 蛇口から勢いよく流れ落ちてたまっていく水の音が、もやの掛かっていく浴室と反比例して私の頭のぼけた思考を散らしていく。
 私たちは一緒にお風呂になんて入ったことがないし、そもそもこんな狭い一人暮らし用のユニットバスに二人で入るって……想像して、頭がパンクしそうになった。絶対超密着しなきゃ無理なやつだ。そして、啓悟はそれを嬉々としてやるタイプだ。間違いない。
 頭を振る。少し湿った髪が重い。私の頬がつぶれてべちょりと縁に貼りついた。
 
「なァにをやってんですか、貴女は」
 
 滑りがあんまり良くない折り戸が悲鳴を上げて、ガタガタしながら横に開いていく。スーツを着ているとヒーローの時よりしゅっとして見える『ホークス』がいた。
 
「音しなかったよ!?」
「普通に鍵開けて入ってきましたよ、聞こえんかっただけでしょ」
 
 思っていたより遥かに早くて唐突な登場の仕方に、心臓と頭が滅茶苦茶なことになっている。驚いたのと、心の準備どうしようかとか、お風呂回避できる言い訳はないかとか、もうちょっとぐだぐだしていたかったのに。
 私の体勢と表情だけで彼はあらかた察したみたいだった。笑っているのにほんのわずかに眉が寄っていて、私が自分で言いだしたことを履行させるかどうか、彼が迷っている。
 啓悟は腰を落として私と視線を合わせると、へらっと笑った。
 
「ただいま」
「…………」
 
 先程のやり取りで、今までとは変化した挨拶。私ももう、彼にいらっしゃいと言うことはない。なんの変哲もないやり取りなのに、これが意味する重みを感じてすぐに言葉が出てこない。
 
「おかえりなさい」
 
 こくっと飲み込む。躊躇いも何も必要ない。迷いも全て、たまった唾液と一緒に落ちていけばいい。硬くならずに笑えていたらいい。
 
「服濡れますよ。リビングあっち行きましょ」
 
 ようやく浴槽とさよならできた私の頭を啓悟が叩く。優しくて、器の違いを感じさせられる。いいよ、って言ってくれてるみたいだと思った。
 ホークスはやることなすこと何でも速いくせに、啓悟としてはこういうことには時間を掛けてくれる男だった。急いだりがっついたりせずに、大概は私の気持ちやスピードに合わせてくれる。彼の優しさと忍耐と、余裕を私はいつも感じていた。
 このまま甘えてリビングに行けば、いつも通りになるんだろう。焼き鳥を食べて、テレビを見ながら他愛のない話をして――まぁ、多分するんだろうけど。啓悟とすること自体は全くもってやぶさかではないから構わない。少なくとも、煌々と明るい浴室で何から何まで全部見られる恥ずかしさは回避できる。
 
 でも、それでいいんだろうか。
 
 あの時、雰囲気に流されたことは否めない。否めないながらも、私がホークスに触れたいと思ったことも間違いなんかじゃない。
 
「なまえ?」
 
 背中に触れて、さすって、ただ抱き締めてあげたかった。私の自己満足でしかないけど、私は少しは足しになれると思いたいから。暗がりで熱に浮かされてされるがままになってるんじゃなくて、私が自分でどうするのか決めなきゃ意味がない。
 ダークグレーのスーツの端をきゅっと握る。ここは暑い位なのに、一瞬、身体が震えた。
 
「お風呂、冷めるから」
 
 恐怖ではない。きっと、これは武者震いだ。
 消え入りそうな声さえもやたらと反響する浴室で、目の前の啓悟は見たことがない表情をしていた。

ヒロアカ夢webイベント:夢ざか雪月花(2024.12.14~18)にて初出・展示。