押しつけ

 パンプスの、ヒールの音がカンカン鳴っていた。
 ものすごく耳障りだ。それでも、私は屋上を目指して進んでいく。すり減って芯が顔を出した靴を直す時間なんて公安にはない。ましてや、今は気持ちの余裕なんてもっとない。
 
 上りきった先のすりガラスの向こうが赤く染まっているのを分かっていて、私はドアを開けるなり叫んだ。
 
「ホークス!」
 
 ドアを開け放ったまま、その場で肩で息をしていた私の目の前を剛翼が一枚、横切っていった。来るのを見越されている。
 
「どーも。わァ、ご機嫌悪そうで!」
 
 手すりにもたれ掛かっていたいたホークスの、めいっぱいの笑顔がたまらなくワザとらしい。彼は、こういう時に目をすがめるのだ。少年と青年の狭間らしい、くしゃっとした笑顔が滅多に見れないことは分かっている。それでも――これは、ヒーローである彼の本音を隠している時の顔だ。
 
「何でよ」
 
 迂闊に近づけなかった。下手に近づいて、言いくるめられて、上手くあしらわれるなんて許せない。拳の中で、伸びた爪先が掌に食い込む。立ち尽くしたまま、一言問いかけた。
 
「何がです?」
「分かってるくせに!」
 
 ここが職場だなんてことは、気にならなかった。私の今の顔は、どれだけ醜いだろう。強張った顔の筋肉と、力の入った眉間。感情を隠すことなく吠えた私に、ホークスは背中の翼を緩めた。はらはらと羽根が落ちる。
 
「貴女らしくないなァ」
「誤魔化さない――」
 
 彼の太い眉が、斜め下がっていた。最後まで言えなくなった私に向けて、風に混じった微かな方言風が聞こえてくる。そげん こつなか、と。耳を疑ってしまう位、弱々しい声だった。

「俺、なまえさんに怒られるの初めてじゃないです?」
「……優秀なNo.2に対して? 何を?」
 
 言われて気が付いた。公安職員としてホークスに会って以来、確かに彼に向って声を荒げてどうこう言った覚えがない。チャートインする程の実力の持ち主、かつ公安の仕事を引き受けてはソツなくこなす彼に、感謝こそすれどんな不満を持つことがあっただろうか。
 そんな私達が――私が、何でこんなに彼に感情をぶつけなければならないんだろう。
 
「分かってるじゃないですか」
 
 公安貴女達の指示だろう、と言われた気がした。
 ホークスはそんな顔をしない。彼は、弱さも隙も見せず、生意気に自信たっぷりげに笑うのだ。そんな、いかにも本音を隠していますと言わんばかりの苦しそうな笑顔を見せたりはしない。
 
「どうして全部、飲み込んでしまえるの」
「そんなこと言っていいんですか? 職務規定違反でしょ」
 
 軽口を叩くホークスに向かって、一歩踏み出す。コツ、コツ。削れたヒールの音が響く。脚を進める度に縮まっていく距離に、ホークスのブーツの先がじりっと動いたのが分かった。
 
「あなたに敵になれなんて、私は言えない」
 
 私は納得していない。二重スパイの指示をした上層部も、受け入れた彼自身も。彼らはプロで、私情を捨てきれない私の甘さを痛い程感じていたとしても、これだけは言わなければならない。
 甲高い音を出すのを止めた時、私は彼の胸元を思いきり両手で押した。
 
「あなたはヒーローだ!」
 
 体幹を鍛えている人間相手では、半歩踏ませただけだった。私なんかでは、彼を動かすことはできない。握りしめた掌で同じ場所を何度も叩こうがびくともしない。
 
「どうして。何で受けちゃうの」
 
 ヒーローは、彼にとって唯一の光だった。
 望んで、縋って、努力して――今の地位にあることは当たり前なんかじゃない。人を救ける為に正しくあろうとした彼の尊厳を、どうして傷つけるような真似ができる。
 
「ホークスは、……平気なの」
 
 敵連合に潜るなら、連中が何をしても下手に止めることはできない。何なら積極的に正しくないことをしなければならない。救けることが、できない。
 
「平気じゃないですよ」
「やっぱそうなんじゃんかぁ……」
 
 足を開いて完全に受け止める体勢になったホークスは、されるがまま、私を止めようともしなかった。眦に溜まっていく涙が衝撃で飛び散って、コンクリの床と彼のスーツに染みを作っていく。
 腕の内側の筋肉が痛くなる位彼を叩いた頃、私は彼のジャケットの端っこを掴んだ。
 
「……ホークス」
「嫌です」
 
 叶わないと分かっていても口にしたかった想いは、声に出すことさえ許されなかった。顔を上げると、厭味ったらしい位、いつものホークスだった。
 
「ごめんなさい」
 
 ゴーグル越しの目は、もう揺れていなかった。
 それを見て、私だってどうにもならない中途半端なことはもう止めようと諦めた。掴んでいた白いファーが、指の間をすり抜けていく。鼻を啜るとずずっとみっともない音がした。
 
「こっちこそ。私が踏み込んでいい領域じゃなかった。ごめんなさい」
 
 私が何を言ったところで、彼が止める気がないなんてことは分かっていた。それでも、言わずにはいられなかった。とんだ自己満足だ。
 
「あー……いいんですよ、貴女は。あれで」
 
 冷静ではなかった私が気を取り直したと見ると、ホークスは後頭部をかきながら言った。言わせてさえくれなかったのに、と胡乱な視線を送ると、ついとジャケットのファーに彼の顔が埋まる。
 
「気を変えたりしないのに?」
「変えませんけど。でも、俺の為に怒ってくれて……嬉しかったですよ」
 
 口を滑らしたり、都合が悪いとあの子は顔を隠すんですよ。前に目良さんが言っていたことを思い出す。髪とイヤマフの下から覗く耳の色が、いつもと違った。隠したかったのは何なのか、追及するのは止めておいた。
 
「嬉しかったです。それは、本当」
 
 含みなく、はにかむように彼が笑う。手の甲で乾きかけた涙を拭って、私も笑った。
 彼が言うのなら、きっとそう思ってくれたのだと信じたい。私達公安が、彼をただの便利な駒としてだけ見ている訳ではないことも、心配している人が確かにいるということも。
 
「……俺、帰ってきたら貴女に言いたいことがあるんスけど」
 
 ふわりと広がった翼に私達二人を隠しながら、最後にホークスはそう予告する。少しだけ角度を上げて見た彼の表情に、平常運転まで戻していた心臓が再びスピードを上げ始める。
 は、一度だけ息を吐いて、私は何とか頷くだけしかできなかった。

『君とクリームソーダ』後半、ホークス敵連合潜入前の1シーン。
読切として書く為に、性格が汎用的で丸い感じに。
あと、意識的に少しだけ恋愛感情のやり取りを入れてます。