また来る夏に

 いつも通りに仕事に行き、いつもと同じように帰ってくる。手元で酎ハイの缶と唐揚げが入ったビニール袋が揺れている。鍵を回してドアを開けた瞬間、ドォンと遠くで鳴って、私は思わず振り向いていた。鼻先を、煙の気配が掠めていく。
 
「花火……」
 
 気を引かれたのも一瞬。どれだけ音がしても、マンションの廊下からは何も見えない。見る気も、その予定もない。ふっと口元が歪んだ、いびつな表情は誰に向けたどんな感情だったんだろう。
 
 部屋に入って、靴とジャケットを放り投げる。柔らかいソファが受け止め、ポーチやハンカチと一緒に自分のスマホもこぼれ出た。何の反応もぴかりと光りもしないそれを無視して、持っていたレジ袋の中身を机に並べていく。
 花火の音は部屋の中からでも感じ取れ、不規則な爆発音と、ひゅるひゅる鳴る笛が何とも耳障りだった。
 
 ――これは、鎮魂。
 
 たくさんの人が死んだ。街が壊れはしたものの、それでも復興は着実に進んでいる。本来の意味での盆の花火に省みた趣旨の大会は、それでもやっぱり、ただの皆が好きな夏祭りだ。
 
 プルタブを開ける。 空気が抜ける感覚と、一口飲めば気体になった泡が唇を打つ。強めの炭酸なことなど知ったことか。ごっごっと喉を鳴らして一気に半分飲み干した。
 爪楊枝に刺した唐揚げと缶を手に、ソファに沈み込む。大きめに切られた、半分冷めかけた鶏肉の塊を頬張る。頬が膨らんで、じゅわっと溢れ出てくる肉汁は啓悟と二人で食べた時と全く同じで、泣きたくなった。
 
 彼は今、彼の誇る仕事をしている。個性を失って尚、求められてヒーローに関わる場所にいられるのが、彼の今までの全て。それを良かったと思っているのに、何でこんなに苛々してしまうんだろう。そんな自分がたまらなく嫌だ。
 
「なーにが公安委員長だ」
 
 街が元通りになっていくように、結局何も変わっちゃいない。彼は剛翼個性を失い、最前線で現役ヒーローをすることは難しくなった筈ではなかったのか。アイテムを離さず今も現場に行ってしまう委員長は、余りにも彼らしくて私はちっとも笑えない。
 花火大会の話が出た時、調整が大変で、の一言で笑って本音我儘をひっこめた私は偉い。ヒーロー、ちょっとは暇になったんじゃなかったのってなじらなかった私は間違いなく最っ高に聞き分けがいい彼女だった。
 
 鼻の奥がつんとして、誤魔化したくて缶をあおる。ちらりと傍らに目をやったら、うんともすんとも言わなかった筈のスマホが何故かちかちか光っていて、慌ててリダイアルをする。噛みしめていた唐揚げを飲み込み損ねて、んっ、と変な唸り声が出た。
 
『もしもし』
「っ、け、ご……ごめ……」
『え。ヤバ……大丈夫なんです?』
 
 喉に詰まった息苦しさで上手く声を出せない。反射的な咳が第一声の私に、受話器の向こうの啓悟はちょっと困惑気味だ。手近にあるお酒で無理やり流し込んで胸元を叩くと、いくらかマシになった。
 
「ごめん。もう大丈夫」
 
 大きく息を吐いて、呼吸を整える。軽やかな笑い声と共に、そりゃー良かった、と柔らかな声が聞こえてくる。
 ついさっきまでのささくれた気持ちは、これだけで何処かへ行ってしまった。我ながら現金すぎる。心地よい凪いだ感情のまま、くず折れた姿勢はいつの間にか自然と伸びている。
 
「お酒飲んでた。あと、唐揚げと」
『何すか、一人で。ずるいなァ』
 
 いつもよりも近い、耳元から啓悟の声が聞こえてくるのは悪くない。大好きな声が、耳を打つ。目を閉じると、すぐ傍にいるみたいだった。
 分かっていても、一緒にいたかっただけ。一緒に花火見れるかも、って期待しただけ。
 見ない振りした馬鹿な本音は口に出せない。啓悟が大好きだからこそ、言っちゃいけない。例え、彼が私の気持ちなんてお見通しだったとしても。
 
「いいでしょ。お仕事中ごめんね!」
『残しといて下さいよ、後で食べますから』
「……えっ」
 
 拗ねたように、そして、当たり前のように言った彼の言葉に一瞬止まる。
 地下鉄の逆の路線はすごい人だった。色々なものから解放された群衆は、夏祭りの勢いを借りてトラブルを起こす。調整も後始末も含めて、今日は絶対に忙しいに違いない――筈なのに。
 
「来れるの?」
 
 忙しい中、今までだってメッセージが精一杯で、電話までくれたのに?
 前回は、そう。写真だった。何の遮りもない特等席からの花火の写真だけが送られてきて、遅れて真夜中にメッセージが来ていた。きっと、文字を打つ間もなかったんだなって、次の日の朝に思った。
 
『先寝てていいですよ。まだかかるし――』
「起きてる!」
 
 硬さを感じる間に、啓悟が当たり前だと思って言った訳ではなかったことを知る。彼の口元近くの端末が、ふっと彼が息を吐いたことを教えてくれた。
 
「……待ってる、から」
 
 少しずつ、変わっている。啓悟と、啓悟を取り巻く状況と、啓悟自身の気持ちも。
 ヒーローでない私ができることは何もない。ただ、彼の変化を感じながら、一緒にいれる時には傍にいたい。
 スマホを持つ手に力が籠もる。噛み締めた唇を緩々と解いて、どきどきしながら先を続ける。
 
「そしたら、一緒にお風呂入ろ」
 
 私の所に来てくれるなら、傷痕の残る身体を、失った翼の痕を、精一杯抱き締めて労わりたいと思うから。
 ハ、と声にもならない音がスピーカーを通して聞こえてきた。お互い、何も喋らない。鼓動は自分でも分かる位どんどん速くなって、自分で言ったことなのに恥ずかしくてたまらない。 頬の熱さと羞恥に、誰も見ていないのについ下を向いてしまう。
 
『そりゃ、何がなんでも帰んなきゃ』
 
 明るいのとは、違う。揶揄かいなんかじゃない。ただ、ひたすら優しかった。言葉にすることが難しい私の気持ちを掬い上げてくれるような、穏やかな優しさだった。
 
「うん。帰ってくるの、待ってる」
 
 啓悟は私の所に帰ってくる。些細な言葉の違いを、言い含められた子供のように繰り返した私に、啓悟は満足そうに応えてそのまま通話を切った。
 
 
「帰ってくるのかぁ」
 
 
 スマホを持ったまま、ベランダに出る。
 漏らした独り言は、耳から入って私の脳みそに再確認させる。じわっと暖かさとむずがゆさが広がってきて、頬の筋肉に力が入った。
 
 手すりにもたれ掛かって、夜空に咲く花をぼんやりと見つめる。鼻をついた微かに漂う煙の匂い。喉に絡みついて感傷的な気分になる要素は、今はもうなかった。

allジャンル夢webイベント:おまつり(2024.8.29~31)にて初出・展示。