少し前にもらった部屋の鍵で、ホークスはドアを開けた。中は暗く、誰もいなくて、家電のモーター音が唸るばかり。急な連絡にも関わらず訪問を承諾した家主は、まだ帰宅していないのだろう。
彼女は、いつ何時であってもノーを言わない。分かっていて結構な頻度で連絡をしている自覚はある。今日だって、たまたま関東まで来る用事があっただけだ。
我が物顔で中に入り、ライトのスイッチを押す。照らし出された玄関の上がり框かまちの少し向こうにはなまえのものと思しきもこもこのルームシューズがあり、端には真新しい大きめのスリッパが寄せてあるのが目に入った。
「……ずるいよなぁ、あの人のこういうとこ」
心の声が、誰もいない油断から口に出ていた。出会ったのは、冷たい飲み物が美味しい時期だった。そろそろ床が冷たく感じるようになる季節に、こうしてさりげなく、しかし当たり前のように用意されたこのスリッパのように。なまえの部屋にホークスのものが少しずつ増えている。
なじみの良い壁紙の色にも、最近見慣れつつある。この部屋は、公安支給の部屋に雰囲気が似ているのだ。日常的で、生活に必要なものは揃っていて、しかし個人的な趣味嗜好は余り反映されていない。そう言うと、なまえは笑って公安の借上げ官舎だからと教えてくれた。
なまえは自分を余り出さない女性だとホークスは思う。感情がないのでも、隠しているのでもない。笑うし、怒る。場合によっては、自分は叱られている。何処までもフラットで気兼ねないやり取りと、与えられる感情の振れ幅は新鮮なものだった。ただ、彼女が何を考えているのかはホークスをして、よく分からない。
代わりに何か報いたい、と言ったのは本当なのだろう。行動の端々から受け取る義理堅さにも似た献身は、居心地の良さを自分に与えると同時に、理解は及ばない。
恐らく自分の為に用意されたのだろうスリッパを視界の端に捉えたまま、ホークスは玄関を後にした。
▽
玄関のインターホンが、一度鳴った。
ソファーで次の任務の資料に目を通していたホークスは顔を上げ、動きを止める。出ることはしない。家主が不在なのは確かで、代理で出るには、自分は顔が世間一般に知られている。息を潜めるようにしてやり過ごす他ない。
ベルがもう一度鳴ることはなかった。気を取られてから再び雑事に戻る気にはなれず、ホークスは息を吐いて僅かばかり強張った筋肉を動かした。窓に目をやると、夕方にはまだ早いというのに外は暗く、空気は湿気を含んでいる。雨が降る。そう思った。
なまえは傘を持っているだろうか。自分の思考は、気づけば彼女のことを描いている。
「ば、っ……!」
どうしようもないことを考えていたからなのか、ペアガラス越しだったせいなのか、或いは、オフで完全に腑抜けていたのかもしれない。想定外の事態に、反応が一瞬遅くなった。
突如、高層階の窓の外に見えたライムグリーンの光に言葉を失う。驚いたのは向こうも同じらしい。淡く燃えて光る髪を揺らしながら滞空する彼女は、なまえの部屋のベランダに降り立った。
「何だよ、いるんじゃん」
年上の先輩ヒーローを外でほったらかしにする訳にもいかず、窓を開けると、開口一番文句が飛んでくる。彼女の肩先には薄い水滴の染みがあり、ついては蒸発して消えていく。
「さーせんした。今俺しかいなかったんで」
不動のナンバー2、炎のサイドキッカーだ。なぜ彼女がここに。いや、向こうからしても同じか。本気ではない詰られ方に、眉を情けない形に落とす。
「ちょうど良かった。これ、なまえに渡しといて」
「濡れない方がいいでしょうね。了解です」
押し付けられた紙袋の中には、何冊か本が入っていた。エンデヴァーの特集が組まれたヒーロー雑誌と、大衆的な漫画本。どちらもなまえとすぐに結びつかず、本人のいない所で新たな一面をこっそり知ってしまったことが、どうにも居心地が悪い。
「何か意外ですね。バーニンさんとなまえさんて」
「こっちの台詞なんだけど」
バーニンはホークスを頭のてっぺんから爪先まで、不躾な位にまじまじと見て、ふんと鼻を鳴らした。隠しもしない検分する目つきが、すっと細められる。
「ヒーローも公安も、女は絶対数少ないからさ。歳近いし、……たまたまだよ」
気の強さを前面に出した、トップヒーローのサイドキックらしい如才なさを持つ女傑だ。女だからと侮る訳ではなく、彼女が数多いるヒーローの中でも優秀なことは立場だけで示しているし、迂闊なことを言えば思い知らされる羽目になるだろう。しかし、彼女の言う通り、男が圧倒的に多い業界で、女ならではの苦労や相通じるものがあるのかもしれない。
敢えて突っ込んで聞く程野暮ではない。相槌に留め、ホークスは預かったものを袋ごとテーブルの上に置いた。中身がバランスを崩し、ばさっと音を立てて倒れると、二人の視線ははっとそちらに集中する。
「……ホークス」
紙袋を見つめたまま、バーニンはホークスの名前を一度呼んだ。力強さよりも、奥深い深淵から呼びかけるように。ぱた、ぱた、と雨がベランダのコンクリートを打つ音だけがしている部屋で、彼女の呼びかけばかりがいやに響く。 微動だにしなかった視線を床に落とし、彼女はふっと笑った。
「――いや、いいや。何でもない」
「言いかけて止めんで下さいよ」
彼女が何かを思って自分を呼んだのは間違いなかった。知っているプロヒーローとしての表情ではない。市民を安心させる為、敵を威圧する為、ヒーローは強さと自信を纏うものだから。今の彼女は、柔らかな友人を想う女性の顔を垣間見せている。
「いい成人の男女にどうこう言う程お節介なことはないね」
ごもっとも過ぎる高説とともに、鼻で笑われる。なまえは当然のこと、ホークスも自立した大人だ。友人であろうが色恋であろうが、責任を取れる者同士の関係など、他人がとやかく言うことではない。
「泣かせたら燃やす位言われるかと思いました」
「燃やされる予定ある訳?」
「……まさか」
泣かせる予定はない。そんな甘やかな関係でもない。むしろ、なまえが自分によって傷つき泣く場面を、ホークスは想像できなかった。
「じゃあな。なまえによろしく」
髪を揺らしてゆっくりと飛び降りる。口の端をにっと上げていったバーニンは、間違いなくホークスが知っている『炎のサイドキッカー』だった。