公安のすぐ近くにあるハンバーガーショップの二階席。手元では飲みかけの炭酸飲料と、くしゃくしゃに丸められた包み紙が転がっている。
ホークスは窓際に座って、ぼんやり外を眺めていた。暮れなずむ空は、高層ビル群の後ろで淡いオレンジ色を落としている。肘をつき顎を乗せて、ぐるぐると思考は巡り、巡る。
『ホークスが望むのなら、構いません』
一時の苛立ちが招いた、性質タチの悪い冗談だった。冗談で済ませることさえも厚かましい。あの時、ホークスは意図的に彼女を傷つけたかった。彼女はそれを分かった上で飲み込んで、真正面から受け止めたのだということ位、自分にも分かっている。
揶揄かいに対する怒りなど微塵も見られなかったことが、逆に薄気味悪かった。
自分がそれなりに女性受けする容姿だという自覚はある。受け入れることはなくともそういった誘いをされることもあるし、自分で処理することも、何なら歓楽街に行くという手も使えないでもない。要するに、あの真っ当そうな女性相手にどうこうする必要は全くないのだ。
(なら、どうして俺はここにいるんだ?)
雑にスマホと一緒にポケットに突っ込んでいたぶ厚い紙片を取り出して、窓越しに夕陽にかざしてみる。
彼女がくれた名刺には、手書きで連絡先が書かれていた。公用だか私用だか知らないが、ここにメッセージの一つでも入れればそれで終いなんだろう。公安内部に後ろめたい要素を残すのは本意ではないが、このまま何となくで関係するより余程マシではないのか。
かたん、と隣でトレーを置く音がした。
存在を主張するかのような確かな合図に、意識が引き戻される。同時に、余韻を残す落ち着いた音は押し付けがましくなく、とても自然だった。
窓際のカウンターで、隣に並んで座っている。件の女性は、特に何を言うでもなく、既に食事を始めていた。
「お仕事、お疲れ様です」
「労ねぎらいいありがとうございます。お陰で定時に上がれました」
ホークスから声を掛けると、なまえは意外そうに目を丸くしてこちらに視線を向ける。置いてきた同僚や上司を思い出したのか悪戯っぽく笑って、再びかぷりとハンバーガーにかぶりつく。リスみたいな、小さな口だと思った。
「あなたこそ、お疲れ様です。お待たせしてすみませんでした」
着替えた私服がビジネススーツよりは柔らかい印象を受けるからだろうか。表情や動作は先程よりも親しみやすさを醸し出している。
自分も変装という程ではないが、着替えて羽根は最低限まで落として隠してある。目深に被ったキャップを覗き込みさえしなければ、誰もヒーローホークスだとは気付かないだろう。騒動にするまいとヒーローネームを出さなかった彼女は慎重で、やはり公安所属だと感心させられた。
視線を合わせ、さも知り合いかのように振る舞うのは気が引ける。窓の外は、仕事が終わった人達で賑わいを見せ始めていた。
「イエ……」
置きっぱなしにしていた炭酸は、まだ少し残っている。横目でちらりとなまえを盗み見ながら、ストローを齧った。先程の負い目か、彼女の提案のせいか、一緒にいるのは落ち着かない。しかし、不快でもない。
勘が鋭く、空気を読んで立ち回れ、かつ誠実。こうして笑っているところを見ると、女性としての感じの良さもある。湿った人間関係ではなく、単純な身体的な関係だけを望むなら、決して悪い相手ではない。
「どうかしましたか?」
「流されるかどうか、悩んでます」
悪くはないが、流されるのにも抵抗がある。正義や倫理を看板にした職業に就いていながら、自分はどうにも清廉にはなれそうにない。
有り得ないと断じてしまえないのは、自分が彼女に興味を引かれているからなんだろう。最初の一言が自分の精神的なささくれを引っかいただけで、ハイさよなら、と別れてそれきりになるには、少々惜しい。
二人とも、話しているのに視線が合うことはない。自分達は、まだ他人だ。
「ああ」
馬鹿正直な感情の吐露に、なまえは着実に減っていたポテトを摘まむ手を止め、相槌を打った。
「状況は察します。生理的なものならば、あなたの希望をできるだけ叶えたい。それだけです」
察されているのは自分の本能か性格か、或いは、現状を築き上げているホークスの人間関係か。若さ故の性衝動にしか言及していない彼女に対して、全部かもしれないと思ってしまうのは過大評価だろうか。
「生理的て……」
「感情どうこういうようなタイプには見えませんでしたので」
女性の割には直接的で明け透けな物言いをする。なまえは一本のポテトを摘まんで、口に運んだ。細長い薄黄金のじゃがいもが、ぽってりとピンクベージュに彩られた口に吸い込まれて消えていく。たかがイモごときに、心臓が一度、高く鳴った。
これでは生理的と言われても仕方がない。喉を落ちていくぬるくなり始めた飲み物は、頭を冷やすには足りなかった。
「なくても良かったものを負わせています。代わりに何か報いたいと思うのは、おかしいでしょうか」
なるほど、とようやくホークスは合点がいった。その他大多数の人間のように見て見ぬふり振りをすれば良かったのに、彼女は生真面目なのだ。
「独善的な感情を押し付けている自覚はあります」
公安に拾われたことを後悔したことはない。利用価値のある子どもと目されたことに間違いはなかろうが、それでも彼らと出会わなければ、死んでいたか反社会的な存在になっていただろうことも事実。縁よすがのようにエンデヴァーに憧れ続けた自分に、ヒーローになる手段と、ヒーローであり続ける方法を与えたのは彼らだった。
与えられてから長く時間が経ち、今は返す順番ターンなのだろうと理解はしている。自分に与えようとする人間を、ホークスは久々に見た。
「そういう自分を省みなくてはならないのは、少し嫌だけど」
浮かべる微笑みには、温度が通っている。彼女の優しさと――自嘲が、そこには滲んでいた。
「俺が可哀想だと思います?」
雰囲気を誤魔化すように、気の良い振りをして見せる。なまえの想いは分からないでもない。
同情的で、感傷に満ちていて、彼女の言うように自己満足なのかもしれない。どう贔屓目に見ても恵まれたとは言えない境遇で育った啓悟と、公安に勤めるまでになった、目の前のハンバーガーすら綺麗に食べるなまえが同じ筈がなかった。
「いいえ。あなたを憐れめるほど大層な立場ではありません」
あなたは強いし、自分をきちんと持って知っている。なまえはここに来て初めてホークスを直視し、はっきりと言い切った。最上級の誉め言葉だった。
「でも、人とは違う部分で、欠けているものがたくさんあるとは思う」
言葉を、選ぶように。ゆっくりと途切れがちに紡がれた台詞は、表面的には良い意味ではなかった。今現在、ホークスに面と向かって『足りない』と言う人間などいない。しかし、彼女が正確に自分のことを把握していると、よく分かった。
恐らく、なまえは啓悟のことをよく知っている。公安での訓練のカリキュラムも、成績も、どういう風に啓悟がホークスになっていったのか、その過程をきっと彼女は資料から読み解く機会があったのだろう。
「――得る機会がなかったというのが正しいのでしょうね」
たくさんのことを学び、習得してきた。嫌だったことも呑み込んで、与えられるものは全て吸収した。それらは全て今の自分にとって何かしら有用なものだったが、方向性がヒーローに偏りすぎていたことは否めない。
普通の子どもが当たり前のように親から教授されるものを、啓悟は知らない。過去の環境には優しさもあったが、絶対量が足りなかったのだろう。何故なら、彼らは親ではないからだ。
「やらない偽善より、やる方がマシかなって……思ったんです。あの時は」
立場が上とか下とか、そんなことは自分達の間では大した問題にはならない。現実的に存在する格差は明確だが、なまえはきっと、それをマイナスには捉えない。
なまえは親ではなく、ましてや親が惜しみなく注ぐ類のものを与えようとしている訳ではないだろう。しかし、彼女の見返りなく行動する心根と、それをぶつけてくる思い切りの良さ、正しく状況自分達を分析できる冷静さを、ホークスは気に入った。
なまえの手元には、綺麗に折りたたまれた包み紙と、平らに潰されたポテトの容器が置かれている。Mサイズの紙コップから、薄い緑色と泡が透けて見えた。意外なチョイスが今日の自分の注文と被っていることに気付いて、ふっと力が抜けていく。
「みょうじさん、口」
「え?」
「ここ。つきよる」
ホークスは自分の右の口角をとんとんと指で差した。今食べたばかりのハンバーガーのソースが、少しばかり残っている。指摘に気付いたなまえが彼女の右の口元を恥ずかしそうに押さえた。
「違う、こっち」
逆の方に取られ、つい笑い声を漏らしてしまった。反対です。そう呟きながら、親指で彼女についたソースを拭う。自分の指を舐めて綺麗にする仕草に、彼女は頬を紅く染めた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
己の感情を見せるな、悟られるな。他人を読み、心につけ込み、懐に潜り込め。この生活で、『自分』は何処にあるのだろう。この女性ひとにそんな気を遣わなくていいのなら、とても楽に呼吸ができる。
「ハンバーガーショップでも、育ちって出るもんなんスね」
「何か?」
「いいえ、何も」
当たり前のようにゴミすら丁寧に整え、自分が使う前よりも席を綺麗にする。染みついた挙動は、彼女が両親にきちんと育てられた結果だ。啓悟とは余りにも違う。思わず漏らしていた呟きは、なかったことにした。
彼女に触れていいものだろうか。汚したりはしないだろうか――それでも、手を取っていいと、彼女は言ってくれた。恋人ではなくとも、居場所を彼女は提供しようとしてくれる。
「なまえさん」
名前を呼ぶ。あなたではなく、苗字でもなく、一歩その先へ。
「敬語は止して下さい。俺、あなたより年下でしょ?」
「……あなたは、敬語のままなんですか?」
「俺は年下ですから」
ぐるぐると続きそうな問答をして、二人して顔を見合わせて笑った。どちらからともなく立ち上がり、なまえは席を片付け始める。
重ねられた二枚のトレーの上には、対照的なゴミが並んでいる。最後にホークスが飲み干した氷の溶け切ったメロンソーダは、温度のせいかとても甘かった。