立ち上がった時、尻のポケットに押し込んでいたスマートフォンが落ちて大きな音を立てた。
公安の応接フロア、既に先方は立ち去っている。残された自分はようやく帰ろうと腰を上げ、出されたコーヒーを片付けようと女性職員が入室してきたところだった。
「ホークス、落ちましたよ」
テーブルにトレーを置き、彼女が端末を拾い上げる。特に観察するでもなく、彼女はすぐにホークスにスマートフォンを差し出した。澱みのない動きに他意を全く感じなかったことが逆に新鮮で、ホークスは彼女に興味を引かれた。
「ああ、ありがとうございます。浅かったんかな」
デビューしてこの方、目立つ言動・容姿に強力な個性と衆人の視線を集めるのに事欠かなかったせいか、特に女性に歓声を浴びることに慣れてしまった。別にきゃーきゃー言われたい訳じゃない。ただ、あることに慣れるとないことに違和感を覚えてしまったというだけだ。
「どーも」
「いえ」
返してもらう時も、手が触れた瞬間も、彼女は何一つ変わらなかった。シンプルなビジネススーツは公安職員によくある服装で、きちんとまとめた髪といい、特徴といえる特徴がない。変化の乏しい貌は、今はいかにも社交辞令的な薄い微笑みを浮かべていて、感情が透けて見えることもない。
この人も公安なんだな、とふと余計なことをホークスは考えた。彼女も、自分とは違う形で本心を押し込めているのだろうか。
「偉い人と話すの、面倒くさくないですか?」
「と、言いますと」
「福岡くんだりからしょっちゅう呼び出されて、腹の探り合いは疲れます」
人好きのしそうな、懐っこい笑顔を浮かべて嘯うそぶく。拠点を福岡に移してからも、会長やら目良やら、毎回何かにつけてわざわざ東京まで呼び出されているのは事実だ。ヒーローとして育ててもらった恩はあるものの、頻繁に呼ばれるのを快諾できる距離じゃない。拒否権があるとは思っておらず、結局毎回こうして上京するのだが。
「そうですか。上司に代わってお詫び申し上げます」
真っ直ぐに伸びた背筋が、綺麗な角度の弧を描いた。今日の面会は目良だった。彼女の年齢は自分と幾らかしか違って見えないが、目良の直属で『自分』の存在を認知しているのなら、公安の中でもそこそこ中心的なチームにいるのだろう。
「あなたに期待しているのでしょう」
「期待、ねぇ」
テーブルに置いたままだったグラスを手に取ると、結露が手を濡らす。そのまま滑らせた振りをして落としてやろうかと思ったが、それでは余りにも大人げない。ホークスは、反対に持っている手に力を籠めた。
残っていたコーヒーをストローで飲み干す。空気を吸う音と共に、喉に引っ掛かるようにして落ちていったコーヒーは、氷で薄まっていて美味しくなかった。
「幼少時から関わりがあったそうですね」
「幼少っちゃ幼少ですよ。あれ、何歳だったかな」
目良との付き合いは長く、ホークスが公安に拾い上げられた時には既にいたのではないか。彼が近しく寄ってくるタイプの人間ではないから親密とは言えなくとも、他と比較すれば知っている人間と言っていい。
彼女は、自分のことを知っている。状況が状況だったのだから仕方がない。そうだとしても、よく知らない人間に生い立ちを一方的に把握されていることは気分が良いものでもない。笑顔のままで再びグラスをテーブルに戻すと、硬質で、思っていたよりも大きな音がした。
「問題ありません。今回の仕事も、ちゃんとこなしてみせますよ」
「ホークス」
呼ばれる時は、何か仕事がある時。表には出せないような、綺麗でかっこいいだけではない依頼もよくあることだ。
「ろくな人間関係も持てませんけどね。俺の立場では、ストレス発散もなかなかに難しい」
憧れだけではやっていけないことなどとうに分かっている。しかし、今の複雑な、公安のヒーローという立場を優先すると、ホークス自身が切り捨てなければならないものもたくさんあった。
「ホークス。公安我々は――あなたに犠牲ばかりを強いたい訳ではありません」
「へぇ」
目を眇めて真ん前の女性を見る。彼女は、頭の悪い人にはとても見えなかった。大多数には何でもない、ホークスにとっての不用意な言葉が神経を逆なでしたことも、当てこすられていることにも気付いている。そして、気付かない振りをしない、誠実な人ではあった。
ホークスが普段なら表面に出すことはない尖った部分を剥き出しにしたのは、彼女が公安だからに他ならない。
胸元で揺れるIDカードには、彼女の部署と名前が刻まれている。プラスチックのケースに手を伸ばし、一瞬身を固くした彼女を気にも留めず、名を暴く。
「それなら、みょうじさん。俺とシてくれます?」
「何、を……」
「迂闊に交友関係も広げられない。俺、この方お付き合いするような人もいないんです」
クリーンなイメージを損なわないように。けれど、踏み込ませて守秘義務違反とならないように人とは一線を引く必要はある。この状況で、普通の感性を持つ『他人』とどんな付き合いができるというのか。
「公安あなたなら、安心だ」
公と市井の人々を何を賭けても大切にする感性を持ち、ホークスの事情を知り、あまつさえ何かを与えようという心意気をも持っている、彼女なら。
自分の下世話な申し出に目を瞠っていた彼女――なまえの胸元から手を離す。プラスチックが服と擦れ、弾んだ。
「なぁんて。冗談で――」
「定時まで、待ってもらえますか」
「は!?」
流そうとしたホークスを遮って、なまえが言った。今度はこちらが目を見開く番だった。
「ホークスが望むのなら、構いません」
彼女が思考したのはほんの一瞬だ。こんなふざけた話、最初から受け入れてもらおわうなんて、思ってもいなかった。言い出しておいて何だが、受諾する方がどうかしている。ホークスは、彼女が激高するか困惑するか、そういう様を見て鬱憤を晴らそうとしただけだ。
「あなたはまだ若い。公安こちらの都合で窮屈な思いばかりさせるのは、申し訳ないもの」
薄い微笑みは、先程見たものと同じ。彼女の言うことは、窺い知ることのできない彼女自身の感情なのか、ただの善意なのか、ホークスには分からなかった。