甘くて苦い

 けほっ、と堪えきれなかった咳が出る。奥の方がイガイガしてる。唾を飲み下してみても、違和感は一向になくならない。
 
「風邪ですか」
 
 首元を押さえた私に、たまたま通りかかった相澤先生が声を掛けてきた。
 
「んっ。……なんか、痛めた? かもです」
 
 聞き苦しくて申し訳ない限りだ。恐縮して頭を軽く下げた私に、相澤先生は言葉少なにイエ、と答えただけで、またふらっと何処かへ行ってしまった。何だったんだろう。
 
 事務職員としてこの学校で働く私は、ヒーローじゃない。学校の運営や庶務を主にする人間だから採用条件でもヒーロー免許は求められなかった。だから、とでもいうんだろうか――プロヒーローの教諭陣は皆、ちょっと近寄りがたい。少なくとも、私にとっては。
 中でも相澤先生は言葉数が少ないし風体もあんなだし、生徒サクサク除籍にするし。ぱっと見た感じの、他を寄せ付けない雰囲気は先生方の中でも群を抜いている。
 
「みょうじさん」
 
 この後から予定されてる教職員会議の準備に余念がない私に、相澤先生が再び話しかけてきた。プロジェクターで流さない分の資料を束ねてホチキスで綴じるのは、単純作業だけど地味に手間だ。開始時間までそれ程間もない。私の作業も、あともう少しというところだった。
 
「はい。どうされました……っ」
 
 手を止めて、顔だけ振り向いて。思わず詰まってしまった身体の違和感に、自然と眉間に皺が寄る。ああ、気分悪い。この後私も進行とかあるのに。喉を鳴らしても、引っ掛かった痰は簡単には取れそうにない。
 
「良かったら、これ」
 
 差し出された紙の小箱は、白地に黒と赤という何ともビビッドな色合いに、英語ではなさそうなアルファベットの羅列が書かれている。外国製ならではの洒落たパッケージは相澤先生にはひどく不似合いなようで、この色は相澤先生そのものなのかもしれない。
 
「……あめちゃん?」
 
 友人から移った西の言葉に、ちょっと子どもっぽいと思われたんだろうか。相澤先生の前髪から覗いた目元が、ふっと緩んでいてどきっとした。
 
「喉にもいいらしいんで」 
「あ……」
 
 私が咳をしていたからわざわざ持ってきてくれたんだ。余り接する機会はないけれど、気遣いを自然とできる、優しい人なのかもしれない。外見と、特別な人達への自分の劣等感で判断しちゃいけなかったと反省する。
 
「ありがとうございます、相澤先生」
 
 私も自然と笑顔になる。人から優しくされるのは嬉しい。体調が崩れかけてたりなんかしたら、尚更だ。紙の箱を受け取る瞬間に、相澤先生の固い指先に触れる。大きくて荒れた手は、彼がヒーローである証のようだった。
 
「何だか、お菓子とは思えない色ですね」
 
 手に出した透明感のない黒い菱形は、親指と人差し指で摘まむとふにふにと形を変える。ハードグミの固さっていうんだろうか。目の高さに合わせて観察してみる。特に匂いもなくて、尚更不思議だった。
 
「あっ、みょうじさん。それは――!」
「むぁ?」
 
 13号先生が珍しく声を荒げるのと、私がそれを口に入れたのは同時だった。暗いバイザー越しに、比較的仲の良い彼女の慌てた表情が見える。ぱくん。舌の上に、小さな『お菓子』が乗った瞬間。
 
 
「~~~~っっ!!??」
 
 
 何これ、何これ!
 しょっぱい。え、辛い?
 
 味覚が馬鹿になる位の、ぎゅっと凝縮された塩辛さだった。どばっと溢れてきた唾液を何とか飲み込んで、思わず手で口を押えていた。
 
「先輩、軽率にサルミアッキを人に勧めたら駄目って言ったじゃないですか!」
「美味くないか、これ」
「みょうじさんの顔見て言えるんですか、あなたは!」
 
 何だこれ、本当に訳が分からない。ほんの数秒で辛みの中からねっとりとした後を引く甘さと漢方みたいな青っぽい苦みが湧き出てくる。ぴりぴりとした物理的な刺激と、アンモニアの嫌な臭い。色んな刺激と味覚が混じって頭の中が追い付かない。え、これ本当に何なの。
 
「みょうじさん、大丈夫ですか!?」
「む、ん……~~っ!」
 
 だめ。大丈夫じゃないです、13号先生。
 早く何とかしたいけど、私は自分がこれを飲み込めるなんて思えなかった。口を手で覆ったままま、ぶるぶる首を横に振って意思表示をする。こんな緊迫感のない緊急事態に免疫がないのか、13号先生も慌てている。
 
「えーと。えーと……ぼ、僕、何か取ってきますから!」
 
 何かって、何を。
 何かを探しに行った13号先生を見送りながら、もごもごと口を動かす。飲み込みたくないけど、舌に乗せたくもない。何かで『コレ』がどうにかできるとは思えない。そもそも何で相澤先生はこんな表現のしようがない刺激のあるものを私に食べさせるの。
 なんかタイヤのにおいまでしてきたきがする。まじやばい。
 
 相澤先生に心の中で八つ当たりしながら――いや、これは八つ当たりじゃないかもしれない、と思い直す。おかしくなりかけた思考回路がぐるぐるとすごいスピードで回っている。
 
「みょうじさん。出していいですよ」
「んむ?」
 
 座ったままの私の傍らにしゃがんだ相澤先生が、こちらを見上げている。差し出された掌は上を向いていた。
 彼の言っていることがよく分からなくて小首を傾げる。反動でころんと口の中で転がった例の『アレ』が、また舌の上でじわりと溶けて不快感が増す。口当たりの酷さに悪寒が身体を走っている。それとは逆に目元は熱くなり始めて、余りの情けなさに本当に泣きそうになった。
 
「出して」
 
 相澤先生は、もう一度言った。私の顔を見て、口元を指さして、彼の目線が差し出された手を追いかける。何を言いたいかようやく理解して、喋れない代わりに大袈裟な位に首を横に振った。けれど、肩に添えられた手が、先を促している。
 
「ほら。いいから。ぺっ」
「む~~っ!!」
 
 元凶が相澤先生なことは間違いないけど、一度口に入れたものを出すなんて。しかも、ただの同僚の異性の手に。そんなこと、できる訳がない。口を固く結んで断固拒否の姿勢を崩さない私に、彼は後頭部をかきながら、溜息を吐いた。
 
「仕方ねェな……」
 
 小さな声なのに、ぶっきらぼうで、ものすごくよく聞こえた。面倒臭いと思われたんだろうか。きゅっと心臓が縮こまる。
 にじり寄るように距離を詰めてきた相澤先生と目が合う。違う。きっと、合わせられた。隠れがちな彼の目を、私は初めて直視した気がする。小さくて真っ黒な瞳が、私だけを映している。
 見入っていた私の顎を、先生が掴んだ。
 
「出せ」
「ひゃい……」
 
 顎の上下の咬合をぐっと押され、薄く口が開かせられた。視線が痛い。目が光りそう。この人、私が拒否したら隙間から指突っ込む気だ。観念して頷くと、ようやく私の頬を拘束している手は離れていった。
 歯で咥えた、最初に見たよりもいくらか小さくなった物体を彼の掌にぽとんと落とす。濡れて黒光るそれは、羞恥心もあって目を背けたくなるようなものだった。
 
「すみません、もらった食べ物――ていうか、手! 手、洗ってきて下さい!」
「いえ。……そんなにまずかったですか」
「…………」
 
 脳みそが処理しきれない未経験の味がしました。もらった食べ物には到底言えない形容を、沈黙で相澤先生は察したらしい。もらった黒い飴は、彼の掌の中で握り込まれている。恥ずかしいし、そんなの早く捨てて欲しいと心底思った。
 そもそも、雰囲気と相澤先生の圧に呑まれてしまったけれど、落ち着いて考えれば、自分の手に出してしまえば良かったのでは。私はよっぽど頭が働いてなかったらしい。
 
「喉は?」
「え?」
「喉。どうですか」
「……あれ?」
 
 相澤先生に聞かれて初めて思い当たる。そういえば、だいぶマシになったような気がする。喉元に手を当てる。さっきとは違って、何かが詰まったような違和感は和らいでいた。
 
「喉にはいいらしいんで」
 
 何で。瞬間風速爆裂な嵐が通り過ぎた後の衝撃と信じがたい事実に呆然としていると、ハッと軽やかな喜色に満ちた声が耳に入ってきた。そっと盗み見た横顔が、笑っている。明確に、誇らしげに、相澤先生は隙だらけの笑顔を浮かべていた。
 
「飴でも食べます?」
「普通の?」
 
 重ねられた提案に、思わず聞き返す。彼のポーチから出てきたのは、熱中症対策の塩レモン飴だった。
 
「……そっち先にくれれば良かったのに」
 
 差し出した掌に、キャンディーが転がり落ちてくる。私からしたら当然の注文に、相澤先生は苦笑する。だって、しょうがない。あれは私の味覚では受け入れがたかったんだから。
 
「こっちより美味しいと思ったんだよ」
 
 彼の味覚は、ちょっと変わっている。そのことを初めて知った。今までよりもずっとぞんざいで気安い物言いと近づいた距離は、不本意ながらサルミアッキのお陰で間違いない。
 舌の上で溶ける飴は、しょっぱくてすっぱい。それでも、さっきよりもずっと美味しいものだった。