「暑い」
強のボタンが押された扇風機の真ん前に陣取って、私は涼んでいる。暑い。本当に暑い。去年もだったけど、今年の暑さはちょっとおかしい。
いつもより高く緩く結びあげられた髪が風に靡く。お風呂上りっていうのは本来気持ちいいものだけど、この気温では出たところからまた汗かいてるんじゃないかとさえ思う。
手に持っていた棒付きのアイスキャンデーを齧ると、歯に凍みわたる冷たさが気持ちいい。目を閉じて風に任せて、ぶーんとモーターと羽根が回る音に意識を持っていかれそうだ。
「だらしなさ過ぎだろ、おまえ」
遅れて上がってきた消太が、髪をタオルでわしわしと拭きながらリビングへ戻ってくる。教師になってからというもの、消太の小言とツッコミは格段に増えた。彼の視線は私の上半身に向いている。
ブラもなしで間に合わせに着たタンクトップと、薄い素材のハーフパンツ。お風呂上がりだから、当然ノーメイクのすっぴんだ。確かにだらしないかもしれない。でも、今位は少しでも涼しい格好でいたい願望を優先したって世の中の大多数の人間はきっと理解してくれる。
「わはひわなふへも――」
「食べながら喋るな、お行儀が悪い」
もごもご言っている私の口からはみ出していたアイスの棒を消太は引っこ抜いた。お行儀とか言ったよ、この人。変な所で丁寧な言葉が出てくるのは、きっと『先生』の影響なんだろう。
口の中から滑り出ていった濃厚なバニラは、とても冷たかった。唇の周りについたアイスを舌で嘗めとると、消太は眉を顰めて私の方を見ている。
「私は夏でもあんな服着て動き回れる消太の方が信じられない!」
消太は、あの真っ黒で分厚そうでいかにも通気性の悪そうな仕事着の上に、マフラーよろしく捕縛布までぐるぐるに巻いている。首周りの保温までばっちり。冬ならともかく夏にあんな恰好したら、私はあっと言う間に熱中症になりそうだ。
「……仕事だからな」
「合理的に機能を追及してったらああなったんでしょ、知ってる」
消太は元は私のだった、もうほとんど残ってないアイスを口に含んだ。溶け落ちそうな部分をじゅっと啜る音をさせている彼は、いくらか不満そうだった。
別に、こき下ろしたいんじゃない。私はヒーローのことはよく分からないけど、消太の性格上間違いない。
余計な装飾も引っ掛かりもなく、傷がつきにくく、何処にでも紛れ込めそうな地味さといい、センスなんて度外視の、消太が地下系ヒーローである為にある服だから。それに、ヒーローである彼に惚れた私にとって、あの姿はやっぱりかっこよくしか映らない。
「暑そうだなってだけだよ。汗かかない?」
「かくよ。でも、そこまでじゃない。慣れてる」
「……大変だね、ヒーロー」
見た目に反して実は涼しい凄い素材なんです、とかそんなオチではなかったんだ。
丈夫な素材が密に織られているのは当然だし、捕縛布だってないと困る。真夏でも平気な顔して、そんなことに係っていられないんだろう。私から言い出したのに、思っていた以上にシビアな返事だったせいか、言葉尻がつぼんでいく。
当たり前で、でもやっぱり分かってないこと多いんだろうな。私が知らないところで、きっと危ないこともいっぱいしてる。私が知ってる限りでもやってるんだから、まぁ間違いない。何とも言えない気分になって、三角座りをした足に顎を乗せた。
ぶおぉと轟音を立てて回っている扇風機が、私の髪と頬と、むき出しの腕を撫でていく。肌に残っていた水気が蒸発していって、少し冷たく感じた気がした。
「それより、おまえは本当にもうちょっと何とかならないのか」
「へ?」
「言い方変えるぞ。露出が多過ぎやしないか」
アイスの棒を捨ててきた消太が、私のすぐ傍で股を開いたまましゃがんだ。視線の高さは背の高い消太の方が上。上から覗き込まれるように降りている視線の先は、私のぺらっぺらなタンクトップだった。
「別に消太の前で控える必要なくない?」
服の襟ぐりを摘まむと、肌と布の間に隙間ができて、私の胸がよく見える。ブラしてないから色々見えてるかもしれないけど、見られて困る相手じゃない。人並みのバストから消太の顔を伺うと、口元が呆れてる時のそれだった。
「おまえね」
「今年は汗疹なりやすいみたいなんだ」
そんなに代謝の良くない私でもよく汗かくんだよね。特に胸の間は溜まりやすいし、今だって一筋流れてく感覚は気持ち悪い。乾かしたくて、私はタンクトップの首元を摘んでぱたぱたと振ってみせる。
「なまえ」
突然腕を掴まれて、どきっとする。反対側の手が服を思いきり引き下げている。見える見える。おまけに伸びちゃう。見られても問題はないけど、こういう剥かれ方が好きな女は、多分あんまりいない。
「な、何」
「これ、大丈夫なのか」
私が至近距離で人の胸元を遠慮なく晒している体勢のまま、消太は言った。それで、ようやく私も消太が何を心配してたのかに気が付いた。
「あー、ちょっとカサつくのと痒いだけだから。大丈夫、大丈夫」
広範囲に赤い湿疹がぽつぽつとできている。首も胸も、見てないけど背中とか関節の裏側だってムズムズしてるからできてると思う。
「薬は」
「あるけど、別にいいよ」
小物がぶち込まれてるチェストに視線を向けただけで、薬の在処を察した消太が動き出す。早い。決めるのも、決めた後の行動にも、消太には本当に無駄がない。
「いや、塗りなさい」
「ヤですよ、先生」
「あぁ?」
ちょっとは整理しろ、効率が悪い。お叱りを受ける。医薬品関係の引き出しを漁って目的のものを見つけた消太は、成果物を手ににじり寄ってきた。
「ほんといいから。いらない」
「理由を言え」
至近距離まで近づいている消太の目は、普段より大きくなっている。とっ捕まえられそうな勢いに、思わず目を逸らしていた。抹消を発揮されてる訳ではなくても、今にも目が赤く光りそうだ。
「圧すごいから、目ぇ見開かないで」
自分が言ってることが正しいと思う時、誰だって強行的になるものだ。実際、消太は間違ったことを言ってはいないし、私を心配してくれていると分かっている。けれど、それを押しても、今日は私だって譲るつもりはなかった。だって――。
「……舐めるでしょ」
「は?」
「消太、舐めるじゃん」
私の首とか胸とか、背中とか。諸々今私に汗疹ができてる所全部。一往復だけのやり取りで、消太は全て察したらしい。
「……あー」
身に覚えありますよね、絶対。何せそっちがしてるんだから。負けじと睨み返すと、今度は消太が口ごもって視線を逸らす番だった。
薬はあるけど、塗ったらベタベタするのが嫌いだ。逆も然り。まして、口に入れたらダメなやつ。
「分かった。善処する」
消太は少しだけ考えていたようだったけれど、それは本当に短い間だった。自分で勝手に納得した様子で、うんと一つ頷いている。
「何を!?」
分かってくれたんじゃないの。答えは貰えないまま、身体をぐるりと反転させられ、座らせられた。背後に消太の気配を感じたまま、べろりとシャツをまくり上げられる。
「とりあえず、薬は塗っとけ。どうせおまえは放ったらかして悪化させるクチだ」
「よく分かってらっしゃる……」
ねっとりとした軟膏が肌に乗せられて、体温で柔らかく溶けていく。指の先まで使って、大きな手で丁寧に塗りこめられていく感触は、どこまでも優しい。
舐めないけど触るから、という宣言に、私は苦笑する。振り向いて首を伸ばすと、私達は口の先で掠めるだけのキスをした。