最後の句点マルを打ち込もうとキーボードを叩く。プラスチックの無機質な音が、静かな職員室に響いた。終わりの目処が立ったから、もうここまでにしよう。
パソコンの電源を落として、ディスプレイを閉じて、ふぅと一息吐く。もう外は暗い。最近、少しずつ日が落ちるのが早くなってきた。目が痛くて、私は皺を寄せた眉間を指で揉んだ。
「こんな時間まで残ってたんですか」
「ぅわっ! びっくりさせないで下さいよ!」
唐突に背後から聞こえてきた声とにゅっと突き出てきた真っ黒な風体の人物に、私のちっぽけな心臓が跳ね上がった。相澤先生はたまに気配を消してる気がする。仕事の時はともかく、私に対してするのは止めて欲しい。
「それは失礼」
「いえ、こちらこそ。来年度の入試広報の締切がありまして」
雄英の中で不審者が出る訳ないと分かっていても、ビビっちゃうものはビビっちゃうんですよ。何せ私はただの小市民で、一事務員でしかないから。
とはいえ、人に向かって悲鳴を上げた私の方が失礼には違いないから、向き直って軽く頭を下げる。
「相澤先生も?」
「個人的な指導に付き合っていたのと……まぁ、林間の準備とかですよ」
「ああ、なるほど」
今年の一年生は、色々前倒しですると聞いている。毎年行っている林間合宿とはいえ、普段の任意の活動よりもやることが多いのは納得だった。ヒーローしながら先生をやって、事務仕事もいっぱいあるなんて。特に相澤先生は出動要請も多いし、本当にタフだ。
「……相澤先生?」
「何ですか」
近くのデスクに寄っかかったまま、動こうとしない相澤先生に声を掛ける。淡白な返事は、彼の意志や意図が読み取れなくて困惑する。
「帰らないんですか。終わったんですよね?」
「みょうじさんこそ、帰らないんですか」
「帰ります、けど」
もう終わったし。相澤先生が私の手元を見ている。見られてると思うと、何だか恥ずかしいし動きづらい。もたつきながら帰り支度を済ませて私が椅子を引くのと、相澤先生が立ったのはほぼ同時だった。
「……もしかして、待っててくれたんですか?」
ようやく思い至って恐る恐る聞いてみる。間違ってたら恥ずかしいなって思ったのに、私の懸念に反して、相澤先生はさも当然のことのように頷いてくれた。
「こんな暗い中、一人で帰らせる訳にはいかないので」
帰る場所一緒ですし。付け足された言葉は、ごもっともだったんだけれど。忙しくて疲れてるに違いない、合理的だと言って寝袋でだって寝ちゃうような相澤先生が、ただの『女性への気遣い』に時間を使ってくれたことが嬉しかった。
「ありがとうございます」
この人は素っ気なくて、分かりやすい態度を取ったりしない。接点だってあんまりない人だ。でも、気付けば色んな優しさを貰っている。何だかんだで担当クラスの生徒にも慕われているし、面倒見の良い人なんだろう。
「帰りましょうか」
笑って誘うと、相澤先生の口元も、ちょっとだけ上へ向いたように見えた。
▽
校舎から教職員寮まで徒歩十分。生徒用より遠いけど、外部から通勤することを考えれば遥かに便利でありがたい。
いつもなら何とも思わないこの時間と距離が、今日は短いような、長いような。どちらとも言えないような、不思議な感覚だった。
「…………」
寮へ続く道は、外灯で照らされているからそれ程暗くはない。二つの影が地面に伸びて、歩く度にゆらゆらと揺れる。
身長がとても高い部類に入る相澤先生の歩く速度は、私と同じだった。彼のこういう些細なところがいつも、私の感情を柔く緩く、揺さぶってくる。
共通の話題は特にない。お互い、職員室でたまに話すことがある程度の顔見知りでしかない。ただ、私が少し彼のことを気になっているだけ。
口を開こうとして、何を言えばいいのか分からなくて止めて。それを、何度か繰り返す。しょんぼり俯きかけた顔を無理やり上げると、開けた視界に月が入った。
「うわ、ぁ」
煙るように霞がかった雲が、空一面に広がっている。ぼやけた輪郭が、薄衣をまとったように、ぼんやりと優しい光を放っている。
「相澤先生、見て下さい。月が綺麗です」
薄雲から、或いは雲の切れ間から透けて見えている光は自然現象としてとても綺麗だ。はっきりとしていないからこそなのかもしれない。うきうきとした気分のまま、教えてあげたくなって、隣の相澤先生を見上げた。
「……はぁ」
「相澤先生?」
彼は、夜空を見なかった。それどころか、私を一瞬凝視した後、深々と溜息を吐いている。呆れさせるようなことを言っただろうか。
「それは、夏目漱石ですか」
「え?」
「いや、いいです」
どうしてか急に出てきた文豪の名前に、私は心底首を傾げる。多分何か言いたかったんだろうことは分かったけど、何なのかは分からない。鈍い私の反応に、相澤先生は勝手に納得して打ち切ってしまった。
「みょうじさん」
それから数歩歩いて、相澤先生は私の名前を呼んだ。見上げた彼の横顔は、淡く黄色い光に照らされていて、いつもよりも優しげに映った。
「月が、綺麗ですね」
さっき私が言った言葉を繰り返す。確かに綺麗だけれど、訳が分からなくなって、私は立ち止まってしまった。一歩前に行っていた相澤先生も、気付いて歩みを止めてくれる。
相澤先生が振り向いている。逆光で表情はよく見えない。でも、口元は笑っている。
差し出された手は大きくて、ごつごつとしていて。どうしようかと固まっていた私は、次の瞬間手を取られてどきっとした。
「少しだけ遠回りで行きます」
ささやかな、提案という名の決定事項の報告。
一番先の関節だけが軽く触れるような浅い結びつきは、始まりかけた私たちにぴったりだと思った。
※ 福沢諭吉が『I love you』を『月が綺麗ですね』とでも訳せ、と言ったとかいうお話。