寂しさの輪郭

 鍵穴に金属の塊を差し込んで捻る。それはすんなり回って、がちゃんとサムターンが跳ねる振動が手に伝わってきた。
 当たり前だ、この部屋の鍵なんだから。部屋の主は間違いなくいないだろうけど。
 冴えない予想に、私は溜息を落として鍵を雑に鞄に放り込む。扉を開くと、案の定真っ暗だ。後ろ手に閉めたドアに背中を預け、ずるずると屈み込んでしまう。分かっていたのに、つい来てしまった。
 
 一人は寂しい。彼と触れ合える機会が激減してから、私はしょっちゅうそう思う。
 どういう心境の変化があったのか、消太は表に出ないヒーローから教師になった。最前線で敵をふん縛ってるよりかは危険も少ない。たまに感じていた危うさを気にしていた私にとってほっとしたのも本当だし、彼にとっても良かったんだろう。
 私にとっては想定外だったのは――要するに、彼は職員寮への住み込みで、その上ものすごく熱心な先生になってしまったという点だった。
 
 私達、最後に会ったのって何時だった?
 
 そんなの覚えてない。覚えてない位前だ。全く笑えない現実に、私は瞼を何度も閉じたり開けたりする。押しかけ女房よろしく始まった関係だけど、私達は仮にも付き合ってるんじゃなかったっけ。
 誰が悪いと当たり散らす訳にもいかない。だって、今の消太は社会人として当然あるべき姿だ。望ましいことだ。私だってそんなことはよく分かってる。でも。
 
 じー、っと部屋の奥から時計のモーター音が聴こえてくる。秒針の音がうるせぇと消太が言って選ばれたあのコは、こちこちとネジの音こそしないけれど、静かだと余計に耳障りだ。
 
「……会いたいよう」
 
 何かにつけ、この部屋にいると彼のことを思い出してしまう。寂しいから気を紛らわす為に来たのに、余計に感傷的になっている自分に呆れる。
 
 私、どんだけ消太のこと好きなんだろう。
 
 体育座りみたいに小さくうずくまって、熱くなってきた目を膝頭に押し付ける。生理的に何か出てきそうになって、鼻を啜ると間抜けでみっともない音が立った。
 扉越しに、足音がしている。ご近所さんでも帰ってきたのかもしれない。今、この部屋は今とても静かだから、色んな音がよく聴こえてくるんだ。私には関係ないけど。
 僅かに上げた首をまた引っ込めた時、足音は止まった。隣の部屋の人だったのかな、とぼんやり考えていると、ドアが開いて私の太腿に靴の爪先が当たった。
 
「おわっ。何でこんな所で丸まってんだ、お前。蹴っ飛ばすとこだったぞ」
「……消太ぁ?」
 
 今正しく蹴り飛ばされかけたので、彼の言い分は大袈裟でも何でもなかった。実際、私は本当にドアの真ん前にいたから、仕方ない。身体能力の高い消太だから止まれただけだ。
 ハナから諦めていたのに、どうして。声だけで分かっていたけれど、俯いていた顔を上げると、やっぱりそこには消太が立っている。
 
「ほら、立っとけ。服汚れてないな?」
 
 腕を掴まれ、立たせられる。掴み方がいつもよりも更に雑だ。埃がついたかのように腰から下まではたいてくる辺り、本当に遠慮がない。
 
「何で?」
「俺の部屋なんだが」
「そうだけど」
「その分じゃ、ロクに見てねぇだろ」
 
 いつの間にか拾われていた私の鞄を押し付けられる。消太の視線の先には、私のスマホ。最後に見た時には何もなかったLEDのライトが、今はちかちかと点滅している。
 
「嘘! いつ!?」
「気付かなかったのに何でいるんだ、お前」
 
 呆然と突っ立っていたのも束の間、呆れた声で聴かれると肩が揺れてしまう。距離が近い。顔も近い。腕、そろそろ放してくれてもいいんじゃないかな。
 
「……近くで飲み会とかあったり?」
「俺に聞くな」
 
 寂しくなって特に用もないのに来て半べそかいてました、なんて。疑わせる余地なくさっくり伝えればそういうことだけど、恥ずかし過ぎて言いたくない。鼻が赤くなってるかもしれない。見られないように、私は明後日の方を向いた。
 
「必要なものを取りに帰っただけだ」
 
 元々イレイザーヘッドの事務所兼消太の部屋だったここは、徹底した合理主義者が部屋の主なだけあって大したものは何もない。初めて来た時よりは増えたけれど、下手をすればスーツケースに収まる程度のものしかないような場所に何を忘れたのやら。でも、彼が意味なく何かをすることは殆ど無いから、多分そうなんだろう。
 
「そうな――」
「と、言いたいところだが」
 
 私の応えを遮った、消太の声は力が籠っている。しかも勿体ぶっているのが気になって、私は思わず彼の顔を直で見てしまった。
 
「明日は直接出てもいいようにしてる」
 
 台詞の内容に頭が一瞬追い付かなかった。彼は今日、すぐに帰らなくていいのだと理解したのは少し経ってからだった。
 
「お前もそれでいいな?」
 
 それは、提案というより確認だった。私が嫌だなんて言う訳ないって、消太はよく知ってる。それよりも、彼が私にそういう逃げ道のない言い方をする方が珍しかった。
 
「……いいの?」
 
 まだ平日の中日だ。一時的に抜けて来たのなら、帰った方がいいんじゃないんだろうか。色々考える。色々、彼が帰らないといけない理由がぐるぐる頭を回る。でも、嬉しいのは確かだったから。無意識の内に、私は消太の服を掴んでいた。
 
「…………はぁ」
 
 きゅっと握りしめた服が皺になっている。消太は溜息を一つ吐いて、後頭部を掻いた。ただでさえぼさぼさの髪は更にざんばらになる。
 彼が帰らないと言われた後でも、離したくない。吸い込まれるように、私はただ彼の顔を見上げていた。
 
「お前な」
 
 鞄を取り上げられて、あまつさえ放り投げられた。フローリングの上に散らばった中身と滑っていったスマホを目で追いかけていると、私の口のすぐ下に消太の親指が掛かっている。
 
「俺に聞くな、って言わなかったか」
 
 くっと引き下げられた指に釣られて、私の唇が薄く開く。伸びてきた人差し指が、無遠慮に下唇をなぞった。
 私は、唾をこくりと飲み下していた。心臓がどきどきしている。目を逸らすことができないまま、近付いてきた顔を避ける術なんてある筈がない。個性を使っていないのに、私をじっと見ている目の底の深さにぞくぞくする。
 
「しょ……っん、」
 
 抵抗したいんじゃない。呑まれても構わない――それすら、本望だ。反射的に名前を呼ぼうとしたところで、私の声は出口を失った。
 目を閉じて、乾いた唇同士がくっついて、私の頬に当たる無精髭がちくちくと刺さって。ふっと送り込まれた空気に苦しくなる。酸素を求めてさっきよりも開いた口腔内に、我が物顔で消太の舌が滑り込んだ。
 ぬるりと歯を辿って、柔らかく私の舌を食む。息が継げない。眩暈がしそうになった私は、ぎゅっと服を掴んでいた手に力を込めた。それに気付いた消太は、ようやく引き下がっていく。
 
「っ、全然。違う、し……」
 
 荒くなった呼吸を整えようとする。唇の端を、消太の指が拭った。どちらのものとも知れない、濡れた感覚を思い知らされて恥ずかしくなる。
 
「お前は、いつも非合理的だ」
 
 この極論合理主義者め。そもそも、俺に聞くなって質問を質問で返すなってことで――あ、なら、合ってるのか。意味合いの違いが分からなくなってきた。分かってるのは、一つだけ。
 
「理性的になんてなれないよ」
 
 好きな気持ちも、想いも、溢れてしまうから。私は非合理の権化かもしれない。殊更、消太に関してはきっとそう。
 
「概ね同意だな」
「え?」
 
 思いもしなかった相槌にびっくりしていると、鼻先を軽く摘まれる。
 
「来れるかどうか分からないのに、急いでないものを取りに来ようとした」
 
 主語を思いっきり省いた台詞は、照れ隠しなのかもしれない。私の予定をきちんと確認して、休みの日を合わせて、二人で約束をするのが最適解だ。私に今日予定があったら、非効率にも程がある。なるほど、確かに合理的じゃない。でも、それは消太が理性的ではない証明にはならない気がした。
 
「……嘘だぁ」
 
 だって、消太は理性の塊だっていつも思うから。ヴィランの起こした事件に巻き込まれた私を助けてくれて、それ以来追いかけてたのは私ばっかりだった。いつも気怠げに、いいようにあしらわれ続けた私と違って、消太が取り乱したところなんて見たことない。
 
「余裕があると思うか?」
 
 消太が掴んでいる手首が微かに痛んだ。何だか、今日は全体的に私への扱いが雑な気がする。普段から分かりやすく甘やかしてくれるような男じゃないけど、今日は――。
 
「理性なんて、こっちも充分飛んでるんだよ」
 
 持ち上げられた手首の裏側。一番柔いところを、甘く齧られる。さっきと同じ、射抜くような強い、ギラついた目。
 
 あ、これヤバいヤツだ。
 
 考えもしなかったけれど、消太も意外とキてたのかもしれない。私だけじゃなくて、彼も同じ。
 嬉しくなって笑いを漏らした私の額を、消太は緩く小突いた。