腕を食む

 水回りをあらかた片付け終えて、キッチンを出る。後ろから覗いた、ソファーに浅く座った彼は、ひどくぼんやりとしているようだった。
 翼があるから深くは腰掛けない。いつもと同じ場所で同じように、照明は煌々と彼を照らしている。それなのに、影になった横顔は、何処か遠くを見ているようで、行ってしまいそうで。不穏な想像に、私は思わず立ち止まってしまった。
 
 スリッパの軽い足音が規則的に刻まれなくなったことに、彼は耳ざとく気付いたらしい。私の方に視線を向けると、焦点の合っていなかった黒瞳がゆらゆらと揺れ、徐々に輪郭は明確になっていく。
 
「片付け、終わりました?」
 
 明るく笑う様は、いつものホークスだった。飄々と、流れるよう、本心とは違う表情もできる男だと知っている。複雑な人間性を彼の声や顔や雰囲気から読み解くのは、いまだに難しい時がある。
 
「梨を剥いてたの」
「あぁ。頂き物の」
「もう少し冷えたら食べようと思って」
 
 ホ-クスが手土産に持ってきた事務所に届いたとかいう梨は、きっと今頃冷蔵庫の中で少しずつ冷えて、あと半時間もすれば食べ頃になるだろう。ヒーローの事務所に届くような梨なら、きっと上等だ。冷えきってしまうより前に、食べてしまいたい。
 
「美味しく食べてもらえるならそれが一番ですからね」
「……あなたも一緒に食べてよ?」
「もちろん。喜んで」
 
 いい部分や楽しいことを、彼よりも前に私に優先させようとする。食後のデザートに梨まるまる一つは多すぎる。シェアを申し出れば、ホークスも特に異論はないようだった。
 
 いつも通り。憎たらしい程、普段通りで変わりない。この梨を届ける為にわざわざ福岡から来たと抜かす彼は、普段なら思い立てばすぐさま来る遠慮のなさの持ち主だ。それなのに、今日は馬鹿げた理由を付けないと会いに来れなかったらしい。僅かに水気を残した手が、ざわざわと冷たい。
 
「なまえさん」
 
 立ち止まったままでホークスを観察する。彼が今何を考えているんだろう、そればかりが気になって、隣で甘えてじゃれつくような気分にはなれない。伺いながら彼を見ていると、ふと名前を呼ばれた。
 
「どうかしたんですか、何か考えてる」
 
 あなたのことだ、とは言えない。眉間に皺が寄りそうになったものを、すんでのところで堪える。確信に満ちた彼の問いかけに、どう答えようか迷った。
 彼こそ何か隠している。微かな違和感を上手く言語化できそうにないけれど、曖昧な言い方では彼を動かせるとも思えない。
 
「何でもない」
「俺の前で嘘吐くの、下手になりましたね」
 
 実際、仕事ならもっと上手いことやれる自信があるし、ホークスは職場での私のことだってよく知っている。私がホークスに対して私的な感情を隠しきる必要がない存在だと認識しているからで、多分彼も私に対してそうなんだろう。
 
「どっちが」
 
 自覚があるのかないのか、取り繕えきれていない彼だって、私と同じだ。
 パタパタとスリッパの足音をゆっくり立てて、柔らかいソファーの背もたれ越しに彼に手を伸ばす。浅くしか座らない彼は遠くて、届かなかった。
 
「ホークスは私をよく抱きしめるね」
「は。……ぇえ? まぁ、そりゃ……」
 
 唐突な私の物言いに、ホークスが珍しく言い淀む。赤い翼があっては、彼の表情も見ることができないのが残念だ。いたずら心で、伸ばしていた手でそのまま翼を撫でると、まるで人の背中をなぞった時のように、羽根の一枚一枚が震えて立ったのが伝わってくる。
 
「何なんです、さっきから。流すにはちょっと、色々含みありすぎやしませんか」
「特にそういうつもりだった訳じゃないんだけど」
 
 恥ずかしいのか照れ隠しか、振り向きながら語気を少し強めているのがおかしかった。話題を流そうと思っていた訳でも、何かを遠回しに伝えようと当てこすっていた訳でもないのは確かだった――けれど。
 
「私は、あんまりしてなかったなと思って」
 
 スキンシップのアクションは、大概ホークスの方から。探りながらお互いの好きを確認し合った後、吹っ切れでもしたのか、彼は好意を隠さず表に出すようになった。何かを取り返すように、過剰と言ってもいい。これでも反省しているのだ、と打ち明けたら彼はどう思うだろうか。
 何気なく言っただけだったのに、彼は驚いたように私を見て、口を開いていた。微かに開いた唇が何か言いかけて、また閉じられる。もごもごと口元を動かしてしばらく沈黙していたホークスは、俯くと深くて長い溜息を吐いた。
 
「……なんそれ」
 
 腹の底から這い出てきた、低くてか細い声は、下を向いているせいかこもっている。ふわりと飛んできた一枚の羽根が、私の周りを踊るようにくるくると回った。
 
「心臓、速いし」
「あー、そうかも」
「それなら、抱きしめて下さいよ」
 
 個性で感知されてしまうと隠しようがない。ホークスがその気になれば、私の身体の反応なんて全て筒抜けになってしまう。
 滅多に使わない方法で私の内心を知りたがった彼は、相応に年若く見えた。素直に認めて笑い声を漏らすと、不服そうに拗ねてみせる。分かってやってるのか、わざとなのかは分からないけれど、そういう所は可愛い。
 
「ううん、いい。やめとく」
「やめるんですか? あんなこと言っておいて!?」
 
 上半身だけこっちを向いているホークスの、開かれた腕が落ちる。自分から言い出しておいて止めるだなんて、目の前に餌を置いて取り上げるのと同じだ。我ながら結構ひどい。
 両手をひらりと一度振ると、それだけで彼は察したらしい。ここ後ろからでは腕が届かない。何より、言われてから改めてするのは恥ずかしい。
 
「手、届けばいいんですね?」
 
 やや据わった目が私を射抜く。次の瞬間、音もなく、数えきれない程の羽根が部屋を舞った。
 視界が赤く染まる。重みのある大きな羽根から床に落ち、柔らかな羽毛が何枚か私の顔を撫でていく。ゆっくりと浮遊しながら着地していく様は、羽根の極彩色もあって幻想的ですらあった。
 
「どうぞ。背中空けときました」
 
 体感は、とても長い。実際は、きっと一瞬だった。私たちの足元が全て緋色の絨毯で覆われた頃、彼は作りものめいた笑顔を見せて、今度は彼から手を伸ばしてきた。たまに、こういう苛烈な面を見せるから目が離せない。
 
「ねぇ、なまえさん。俺のこと抱いてくれないんですか?」
 
 伸ばされた手を取ると、強い力で握られる。力づくで引き寄せられるかと身構えて、しかし、何も起こらない。先程よりも緩んで優しげな、微かな儚さを含んだ笑顔だけがあった。
 心臓がどきどきする。ぎゅうっと引き絞られるような感覚になる。自分よりも大きな手に指を絡めて、握り返して。ただ、それだけで彼が嬉しそうに微笑むから。
 
「いくらでも、抱いてあげる」
 
 あなたが、望むなら。羞恥心も何処かへいってしまうんだろう。ソファーの背もたれを間に挟んで、手を放す代わりに後ろから抱きしめる。腕を回して、包み込んで、親鳥が雛を守るように。
 間に物質があるのがもどかしい位、後ろから引き寄せた彼を近くに感じた。上の方だけくっついた胸の辺りで、二つの鼓動が跳ねている。私の腕に添えられたホークスの手は暖かくて、ただその心地よさに任せていた。
 
「……何で後ろからなんです?」
 
 しばらくして、ホークスがぽつりと尋ねてきた。正面から向き合ってハグすることの方が多いし、回り込んだ方が余程やりやすい。今日は頑なに後ろから動かなかったから、彼が不思議に思うのも無理はなかった。
 
「愛を感じたいんじゃないから」
「はい?」
 
 自分よりも逞しいの腕に抱かれると、安心する。自分に向けられた感情を、大事にされているという実感をもたらしてくれる。私の細っこい腕では同じようにいかないだろうけれど、の柔さや母性が与えられるものも、きっとある。
 
「私だって、感じて欲しいって思う時もあるの」
 
 私はここにいて、彼を大切にして、愛しているのだと。さらけ出すことのないあなたに知っていて欲しい。そして、叶うなら、それを分かち合って欲しい。
 
「……そげんね」
 
 口をついて出た訛りが、彼の答えだった。腕を引かれてより密着した私たちは、顔も至近距離にある。閉じられていく瞼を見つめながら、それを合図のように、私も目を閉じて応えた。
 どちらからともなく唇にそっと押し当てるだけのキスは、とても静かで、優しい。ぬくもりはすぐに離れていってしまったのに、開いた五本の指が腕を撫で、甘く歯を立てられてしまえばぞくりと震える他ない。不安だからではなくて――これは、期待だ。
 
「ん、……」
 
 吐息を漏らした私に、ホークスが声もなく笑ったのが分かる。きゅっと寄せた眉間を、眉毛と共に両方の親指がなぞっていく。機嫌直して、と言われているようだった。
 
「ホークス。梨……」
「キンキンに冷えたのも、美味しいですよ。きっと」
 
 既にお互いその気になりかけているのを分かっていて、理性と少しばかりの矜持が顔を出す。とってつけたような言い訳を、彼はキス一つで封じ込めた。