ちゅっ。
唇を掠めたのは、ほんの一瞬。羽毛で撫でただけな位にささやかな接触と同時に、軽いリップ音が鳴る。まともに不意打ちを喰らって呆気に取られていた俺に、彼女はしてやったりとばかりににやにやと笑っている。
「何すか、急に」
「フレンチキス!」
座っていて、いきなりだ。彼女は満面の笑みで一言そう言った。
フレンチキスとは、また。ここが外国なら太陽の下でしてそうな、明るくて若くて青いハル真っ盛りな、可愛らしいキスだった。
触れるだけのキスで音は鳴らない。つまり、彼女はわざと軽い音を立てたんだろう。それらしくする為に。
「なるほど」
親指と人差し指で顎に触って、考える。
あれがねぇ。頭の中で考えていたことは、思わず口に出ていたかもしれない。
「ホークス?」
一瞬黙った俺の顔を、彼女が覗き込む。瞳が薄く張った涙液で濡れて揺れている。別に怒っちゃいないが――そう、間違いは正してあげた方がいいだろう。
悪い考えは、自然と自分の口角を上げる。何せ、獲物は目の前に飛び込んできてくれている。
「あのですね」
「うん」
片手を彼女の後頭部に回す。髪に指を差し入れて緩く指を動かすと、するりと抜けて流れ落ちていった。指先から伝わってくる人肌のぬくさと髪の柔らかさはどうしたって俺にはないもので、猛禽類の性に火を点けない訳がない。
「フレンチキスっていうのは」
掌を滑らせて、まろやかな頬を辿る。人差し指で撫でてやると、ぴくりと動く。指の動きを追っていた目は、既に開いていない。
「……うん」
伏せられた瞼に、彼女の期待を感じ取る。唾液を飲み込んだ時に、知れず鳴った喉の音が、自分も昂っているのだと教えている。少しずつ無くなっていく俺と彼女の空間がゼロになるのと、お互いの体温が交わるのは同時だった。
触れるだけなら、それはフレンチキスじゃない。
馴染みのある体温と柔らかさを堪能するよりも前に、彼女の唇をぺろりと舐める。表面だけ、ただ一度。それだけで薄く開いて受け入れようとしてくれる位には、俺たちの関係は長くて深い。
気を良くして、浅いところから少しずつ滑り込ませていく。舌が重なりあうと、ざらついた触感が伝わってくる。かと思えば、なめらかな粘膜とぬめる口腔内は彼女の一番奥を思わせて、たまらなく脳髄を刺激した。
は、と彼女の息が漏れる。そんな隙間はいらない。
更に押しつけた唇の先で、従順に差し出されていただけの小さな舌が、応えようと俺のものに触れた。耳の奥で反響する水音に浮かされて、絡め貪っているのは、きっともう俺だけじゃない。
「ふ、……ぁ」
引っきりなしにあふれてくる唾液は、俺が彼女に送ったものと、彼女が飲み込めなかったもので、混じりあってもうどちらのだか分かりやしないのだ。どうでもいい人と、こんなことはできない。
「ん、っ!」
胸元を掴む手の力が強くなった頃、大人しく引き下がった。息を吐くと、思っていたよりも深く吸い込んでいる自分に笑えてしまう。濡れた自分の口の端を舐める。どちらのものだって、構わない。
「こういうのを言うんですよ。覚えといて下さいね」
そんな俺を、肩で息をしている彼女が恨みがましく見つめてくる。さっきよりも余程潤んだ上目遣い。どうして更に捕食者を煽るような仕草をするのか、俺にはさっぱり分からない。
「これ、ディープキス……」
「ディープキスをフレンチキスっていうんですよ。さっきのはバードキス」
単語は正しく覚えなきゃ。笑顔で付け加えると、顔を思いきり逸らされた。
したかったのは当然として、間違った意味で事故に遭われても困るので。特にあなたは。
性欲と独占欲にまみれた過保護さは、みっともないから口には出さずにしまっておく。
「もっかいします?」
「今日はもう、お腹いっぱい」
近づけた頬は、優しい掌で叩かれた。ぺちんと間抜けな音がする。
こんなことにまで煽られているのだから、結局大事なのは行動よりも相手なのだ。
初めて知る甘さを、心の奥にそっとしまいこんだ。