梅雨寒

 雨の匂いだけがしている。
 
 からっとした夏晴れには程遠く、春はとうに過ぎた季節。足元の土は、踏めば柔らかく形を変える。陽が落ちて数刻、どれ位歩いたかはもう覚えていない。
 
「炎柱ァ」
 
 前を行っていた上司を呼んだ。すると、後ろを振り向くこともなく遠慮なしに歩き続けていた杏寿郎が、足を止めて首をぐるりと回す。呼びかけを認識した瞬間にざっ、と土の飛び散る音がしたところからして、彼はそれなりにこちらを気に掛けてはいたらしい。
 
「何だ!」
 
 普段は名前を呼ぶ私が役職で呼んだのが意外だったのか、大きな目の上の太い眉が険しい。彼の些細な変化を理解して、思わず乾いた笑いが漏れた。
 
「これ以上歩いた場合、役に立てないかもしれない」
 
 警邏とは違い、標的がある任務はその日の内に終わらないことも間々ある。少しでも早く鬼を見つけ、頸を切るべきだ。しかし、体力の限界もある。
 私は常中を会得していない。おまけにこちらは鍛錬を積んではいるものの、あくまで女だ。男の柱と同じようにはいかない。そんな当たり前なことを、慣れ親しんだ旧知の仲二人きりの任務だからとはいって忘れられてはたまらない。
 
「そうか! それは悪いことをしたな」
 
 そんな大きな声で言わなくても聞こえている。息をゆるりと吐いて、私は浮き出た木の幹に腰を下ろした。座るとどっと疲労感が肩から脚に降りてくる。これは、任務が終わったら脚がぱんぱんになること間違いない。
 
 抱えた膝と腕に頭を伏せると、再び地の底を這うようなため息が漏れる。このまま目を閉じて、眠ってしまいたい。僅かに傾けた顔と視線の先に、杏寿郎が見えた。
 立ったまま、竹筒の水を飲んでいる。筒の先からぽたぽた落ちる水滴が、地面を濡らしていた。立っていては休憩にならないだろうに。口を開きかけて、止めた。
 
「無理させたの、そっちだから」
「分かっているとも。だからこうしている」
「……杏寿郎のそういうとこ、嫌い」
 
 顔を逸らして、視線を埋めて、彼の下がった眉に気が付かない振りをした。
 更にぐっと顔を腕に押しつける。水を含んだ土を踏むしなやかな音がいくらかしたと思うと、隣に人の気配と温度を感じた。それが、たまらなく悔しい。
 
 いつ何時何が起こるか分からない。今は夜で、ここは外だ。藤の香も焚けない。見張りをかって出てくれているのは私も分かっている。
 私は彼の同期で、旧い友人で――しかし、部下だ。彼にとっては結局守るべき存在にしかなれないのだと、自らの未熟をいつも思い知らされている。
 
「降りそうで降らないな。ありがたいが」
 
 常より青々と茂る雑草、色が濃くて湿った地面。梅雨時期の、雨の狭間だった。髪を頬にべたりと貼りつける汗は、無茶な行軍のせいだろうけれど。
 しばらく座っていると、すーっと引いていった汗に、ぶるりと身震いする。
 
「寒いのか」
「違うし。汗で冷えただけだし」
 
 柱は何かにつけて目ざとい。こちらのちょっとした変化をすぐに看破してくるから嫌なのだ。昨日までは暑い位だったじゃないか。むっとして顔を上げると、きっちり詰襟を上まで止めて、羽織も様になっている杏寿郎が意地悪く笑った。
 
「いや、今日はそうでもない」
 
 梅雨寒し、というやつだな。声に揶揄を含めながら、杏寿郎は私を上から下まで眺めた。何を見ているのか、考えているのかが分かって無性に苛々する。油断して羽織を置いてきたのは私だ。先見の明がない配下で申し訳ないことで。
 立ち上がると、土がぱらぱらと落ちていった。
 
「もう少し休んでおくといい」
 
 とん、と肩を押される。思いもよらなかった彼の行動に反応できず、尻もちをついた。唖然としている内に視界が真っ白に染まる。その端は、鮮やかな朱色だった。
 
「……私、杏寿郎のそういうとこ嫌い」
 
 僅かな彼の体温を残した羽織を握りしめる。皺になる位、ぎゅうっと。強く。
 くしゃくしゃになった羽織の端を彼は見たのだろうか。はは、と快活な笑い声が真っ暗な森に響いた。
 
「存外、俺はのそういう処は嫌いじゃないんだ」
 
 悔しい。悔しい。悔しい。
 羽織を引きずって顔を突っ込む。鼻水でも付いてしまえばいいんだ。
 対等になれない。比肩には程遠い。それなのに、杏寿郎は私を気安い同等の者としてはばからない。
 
「なまえを部下だと思ったことはない」
 
 いつものよく通る声とは違う柔らかさに喉の奥が詰まる。
 薄い布一枚隔てて感じる温もりを、振り払うことはできなかった。

6/22 ... 『梅雨寒』
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