雨が、降り続いている。
梅雨入りして以来ずっと薄い雲に覆われていた空が色を濃くして、驚くほどの土砂降りになった日の夕方。羽根を濡らして帰ってきた鴉が、今日は休みだと杏寿郎に告げた。
▽
「まだ降っているのでしょうか」
豪雨は過ぎ去っているが、むっとした湿気は立ち込めたままだ。凄まじい音はしていない。ただ静かに、壁に掛けた時計の針の動きだけが聴こえているような空間で、時折板戸が風で揺れる音がしていた。
「恐らくな。雨が葉を叩く音がする」
「……私には、分かりませんが」
食べ終わった夕食の膳を片しながら、なまえがことりと首を傾ける。雨戸に隔てられた外の様子は、音と気配でしか伺えない。感覚を研ぎ澄ませることに慣れていない彼女が分からないのは、当然と言えば当然のことだった。
「これならば、出られただろうか」
「そうかもしれませんね」
妻と共に取る夕餉は久方振りだった。今日は非番になったと伝えた時の妻は微笑んだものの、すぐに少し気まずそうに顔を背けたのが印象的だった。
「残念でしたか?」
「職務と責務は変わらないものだ」
「杏寿郎様は、そう言うと思いました」
ふふ、と小さな笑い声が聞こえる。楽しくて笑っているのではないのだろう。まだ祝言を上げて大して時間を経ていないが、彼女は杏寿郎の大体の性分は心得ている。
「今日の雨では危ないとのご判断だったのでしょう?」
傘も意味を為さぬような豪雨は暫し続き、これは通り雨ではないとは思った。街中のこの家の周りでも大きな水たまりができていたのだ、山道など泥濘ぬかるみ如きでは済まなかっただろう。
たまには良いのではないですか、と彼女は言った。確かに、たまにはこういう日があっても良いのかもしれない。杏寿郎が顎に手を当てたままふむ、と頷くと、彼女も首肯を返してくる。
「嬉しいと、思ってはいけないでしょうか」
「嬉しいのか」
思ってもみなかったなまえの言葉を、そのまま返していた。その瞬間、彼女の眉がほんの僅かに歪んで、綺麗に重ねられた膳を持って立ち上がる。
「杏寿郎様はお役目を大切にしていらっしゃる」
普段から丁寧な物言いを崩さない彼女の、更に慇懃無礼な程の口調、視線の違い。これはおかしい。杏寿郎ははたと気が付いた。続けようとしても、彼女は既に勝手処へ去ってしまった後だった。
▽
廊下の奥から、食器を洗う水音がしている。炊事場を整えるにはまだかかるだろう。彼女は暫くは戻らない。
自分が何の気なしに吐いた言葉がなまえの機嫌を損ねたのは明らかだった。さてどうしたものか、と考える。別に杏寿郎は、不在がちな自分がいることで彼女が喜んだことに驚いた訳ではない。
「よもやよもや」
居間から、外の見えない窓を向く。景色は見えない。その代わりに、波打つ硝子は少し情けない歪んだ杏寿郎を映していた。ただ、彼女の先程の様子と、普段の性分を思い起こす。
「君は、そういうことは口にしないだろうに」
貞淑を絵に描いたような、控えめな女性だ。突如降って湧いた夫の休暇を素直に喜ぶことすら恥じ、杏寿郎の意志を尊重するような彼女が、嬉しいなどと。
「してはいけませんか」
思考に気を取られて、近付いていた足音にすら気が付かなかった。手に持った盆には、湯呑みとさくらんぼの入った小鉢が載っている。
「速いな!」
まだ来ないと思っていた分、率直な感想が口を吐いた。先刻やらかしたのと同じ状態に、妻は沈黙の後でくすくすと笑った。
「早い方が良いでしょう、こういうことは」
喧嘩にも満たないような不和さえ、こうも早く解決しようとするのか。それは、きっと杏寿郎の職務が常に危険と隣り合わせのものだからだ。
「むぅ」
彼女は分かっていて、初めて見せたような不満も呑み込んでくれた。譲ってくれる度量が大きいと言うべきか。
「ご近所の方に分けて頂いたのです。食べましょう?」
黄色味がかった淡い紅が、灯を受けてつやつやと光っている。すぐに痛んでしまうものだが、一人で食べてもおかしくない量だ。
「そんなにないだろう。君が食べるといい!」
「一緒に食べましょう、と言っているのです」
圧を込めた言い方に、杏寿郎は嘆息した。新鮮な果物は高級品だ。食べることは好きだが、甘味に目がない訳でもない。それこそ妻に、と思うが、彼女はそれを許さない。
「君は、もう寝るのか?」
なまえが隣に座り、共に茶を飲む。ゆっくりとした空気が流れる。生活を同じくすることは叶わない自分達にとって、貴重な時間だった。彼女が就寝するまでは、このままがいい。
「繕い物をしたら、いつもでしたら休む時間ですけれど」
杏寿郎は桜桃おうとうを一粒口に放り込み、茶を啜っていた彼女は一呼吸置いた。
「……もう少し、起きていて差し上げます」
自分を見て、微笑む。柔らかく、優しく。口の中で咀嚼したさくらんぼは、まだ酸味を残していた。
5/22 ... 『梅雨』
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