ふと、目を覚ました。
ぼんやりとした意識の中、首を傾けると夫はまだ眠っている。何とも無しに別々に敷いたままの布団は、距離こそ近付いたものの一つになったことがない。ごそごそと動きながら、生物の本能に従って私は部屋を立った。
明け方の空気はしんと冷え切っている。手はぴりりとかじかみ、息を吸えば肺の臓の奥底までひりひりと痛む。吐けば白く烟る息は、黎明のほの明るさに大層映えた。
私にとって、初めて煉獄家で迎える冬。村の趣きも屋敷の造りも、全てが違う。例年とは異なる素肌の感覚に身体を震わせながら厠から寝室へと戻り、後ろ手にそっと襖を閉める。
自分の布団に潜り込むと、こちらも既に、無情な位に冷たかった。
▽
古い木が軋む音が聞こえ、覚醒する。危険な場所での野宿さえも慣れた自分では、微かな気配の動きや音でも目が覚めるようになっている。隣に視線を向けると、やはり妻はいなかった。
たまに今日のように夫婦揃って生家に泊まることがある。彼女は繊細な性質ではないが、普段と違う環境で寝付けなかったのだろうか。慣れぬというにはそれなりの回数を重ねており、慣れたというにはまだ俺達は歳月を共に過ごしていない。
腕を伸ばすと、掛布から出た所から急激に熱が奪われていく。妻の褥には、まだ温くぬくもりが残っている。その温度差に、あぁもう冬だなと他愛ないことが脳裏を掠めた。
からり、と起こさぬよう気を遣っているような、静かな音がした。俺が目を覚ましていることには気付いていない。ふらふらとした覚束ない足取りで、彼女は布団に入った。身体の大きさに膨らんだ布団の輪郭がもぞもぞと動き、縮まって、身体を丸めているのが分かる。
「なまえ?」
名前を呼ぶと、彼女は布団から顔を出して見せた。普段よりも隙のある、あどけない表情。俺とは違って、彼女はまだ眠りから冷めきっていなかったのだろう。
寒いのか、と短く問うと小さく首肯する。ふっと自分の表情が緩まるのを感じると同時に、彼女も笑って見せた。
「此方に来なさい」
問うでも誘うでもなく、命ずる。まるで強制力のない指示は、自分の中にこんな柔らかさがあると知って驚く程に優しく響いている。彼女はまた頷くとおっとり微笑み、赤子が這うようにして俺の布団に潜り込んで来た。
「あったかい」
俺の体温で暖まっている空間に、冷えたなまえが侵ってくる。二人の体温が溶け合うようにして、ちょうど良い具合になる。彼女の指先が、すんでのところで俺の胸元に触れるかどうか掠め、止まった。
「ごめんなさい」
「どうして謝ることがある」
「だって。……冷たいでしょう?」
奥ゆかしく、触れることを恥じる人はその場に都合の良いことを言った。彼女の手を握りこみ、細い腰に手を回して引き寄せる。ほんの僅かに寝床から出ていただけだというのに、芯まで冷えきった彼女を暖める。
――あぁ、冷たい。だが、それが心地よい。
低い方から暖かい方へ、或いはその逆へ。等しく分かち合う体温と肌の接触が、互いの心の距離を近づける。少しばかり残っていた空間を越えて、なまえは俺の胸元に頬を寄せた。すり、と丸みを帯びた頬が擦れている。冷たいばかりだった柔肌が馴染んで、薄い桃色に染まっていった。
「暖かくなっただろうか?」
「……少し」
妻の身体に腕を回し、反対の手で頬を撫でる。彼女は大人しく閉じ込められたまま、頬のあった場所に掌をそっと押し当てた。不意のことにぴくりと腹筋に力が籠もったのを感じたのか、彼女は笑い声を漏らしている。
「いたずら好きめ」
仕返しとばかりに腕に力を込めると、彼女は顔を捩らせるようにして、笑い声は隠しきれなくなった。腕に添えられた小さな手に、少しずつ血が通い出す。
「もう少し寝るといい。まだ未明だ」
「杏寿郎さまは?」
「そうだな。……俺も休もう」
目は冴えている。眠れそうにないが、動き出す気にもなれない。他愛ない触れ合いを持つ機会が少ない俺達の、珍しい機会は逃したくないと思った。君を見ていると口に出せば、即座に失われかねない程些細な時間なのだと知っている。悪気のない嘘を一つ吐いて目を伏せると、腕に触れていた彼女の睫毛が何度か揺れ、動かなくなった。
▽
暫しの間、彼女の寝顔を眺めていると、硝子障子の向こうから陽が射し始めていた。どれ位経ったのか。軽やかな足音が自室の前で止まると、兄上、義姉上、と呼ぶ声がした。
「千寿郎か」
「はい。おはようございます」
引かれた襖から、弟の顔が覗いている。二人して千寿郎よりも遅く起き出すことなど今までなく、弟の顔は心なしか嬉しそうに見えた。
「あれ。姉上は……」
出入り口に近い方に敷いていた妻の布団は、もぬけの殻だ。辺りを見回して妻を探す千寿郎は、最後に俺の寝床が異様に膨らんでいることに気付いたらしい。俺の顔を見るなりかっと頬を真っ赤にする様が初心で、笑ってしまいそうになるのを何とかこらえた。彼女を起こさぬようそっと腕を動かし、人差し指を口元に当てる。
「し、……っ! つれい、しました……!!」
皆まで言わずとも分かってくれて助かるというものだ。静かに、という意図は伝わり、上げかけた大声を飲み込んで、千寿郎は開いた時よりも殊更慎重に襖を閉めた。乱れて速い足音で、動揺を隠しきれていない。くっくっと身体を揺らすと、腕の中の彼女は身動ぎしてふっと息を吐いた。
「……杏寿郎さま?」
「ああ、起きてしまったか。おはよう」
ゆっくりと瞬く瞼の中から、ぼんやりとした瞳がこちらを見ている。後頭部を撫でてやると、気持ちよさそうに目を閉じて享受する。再び目を開いた彼女は、少しはにかんだように微笑んでから、朝の挨拶をした。
「おはようございます」
微笑み合って起きるは、たまのことだからこそ、貴く愛おしいのだ。
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