風鈴が音を立てている。この家の軒先に吊り下げられたびいどろは、まだ新しい。短冊が靡き、ちりんちりんと風に揺られて響く涼やかな音が耳に心地良い。
「いい音だ!」
縁側に座るなまえの後ろには、いつの間にか杏寿郎が立っていた。書き物をすると言い置かれていたが、そろそろ時間と切り上げたのだろうか。彼は風鈴を見上げ、実に満足そうだった。
殺風景だったこの場所に風情が加わって、まだ日が浅い。通りがかりの風鈴売りに意識を取られ、気付いた杏寿郎が買い求めてくれたものだった。
「もうお勤めはよろしいのですか」
当然のように隣に腰掛けた杏寿郎に問うと、彼は終わらせたと至極簡潔な答えを寄越してくる。声の微妙な調子から終わった訳ではないのだと察して、何だか嬉しくなってしまった。責務を尊ぶ真っ当なこの人が、仕事を置いて自分との口約束を果たそうとしてくれたと喜ぶのは不謹慎だろうか。
「ありがとうございました」
「それ程高価なものではないぞ」
紺碧だった空は今は色を濃くして、薄闇の紗が掛かっている。普段よりも華やかな柄の浴衣は、自分の気分を甘く高鳴らせている気さえした。いつもと同じ邸の中だというのに、まるで二人で逢引しているような。
「風鈴と……いえ、」
風鈴の向こうに広がる空は、完全に陽が落ちている。団扇で涼を求めながら、なまえも彼に続くように視線を向けた。
透明な硝子は少し歪で、しかし、ぽってりとした愛らしい形。淡い紫の顔料で描かれた藤の花が、鬼払いの家には誂あつらえたようによく映える。これに目を奪われた時、杏寿郎のことをふと思った。日々無事でありますように、と魔除の鈴鐘と藤の花に祈った。
彼が自分の僅かな変化に気付いてくれたことが、素直に嬉しかった。そして、彼にとって、想いや考えを控えることなく表現してくれるような関係になれたのだ、と。
「もうじきですね。西瓜すいかでも切って来ましょう」
「いや、始まったようだ」
おもむろに立ち上がろうとした時、自分の手に、一回り大きな彼のそれが重ねられる。夜空に一筋、光の道が通っていく。ひゅるひゅるひゅる……と甲高い笛の音は、一瞬止んで一転、腹の底に響くような低い音で空気さえも揺らした。
ぱぁっと火の粉が夜空を彩る。優しくて暖かな彼の瞳の色のような光の花が開いて、静かに散っていく。人目を惹くためか、一際大きくて綺麗な一発目の花火に目を奪われる。
花火を見るのは初めてではない。ただ、彼と共に見るのは初めてだった。同じものなのに、共に在る人が違うだけで、こんなにも感じ方が違うものだろうか。
「西瓜は後でもいいだろう」
「でも……」
頂いた西瓜を井戸に吊るして冷やしてある。ちょうど食べ頃になっているだろう立派な大玉を、美味しい内に彼に食べさせてあげたい。でも、休む直前に食べるとお腹を冷やしてしまうかもしれない。咄嗟に脳裏を掠めていったなまえの逡巡を読み取ったのか、杏寿郎は苦笑した。
「君の頼みだ」
そう、自分の頼みだった。近くで花火大会があると知って、杏寿郎に尋ねたのはなまえだ。
――一緒に花火を見れるでしょうか、と。
鬼殺隊の柱として、夜に不在がちな彼に頼むには過ぎた願いだっただろう。叶うだなんて思ってもいなかった。彼は、今夜も出掛けて行くと思っていた。
「……とんだ我が儘を」
鬼切りの妻として、まだまだ未熟。彼が責めている訳ではないと分かっているが、改めて言われると羞恥が湧いてくる。朱に染まった頬を隠すように顔を逸らせば、重なっていた掌が滑り、緩く手首を捕まれた。
「先日、自分の担当地区を回っている時に他で花火を見てな」
脈絡もなく話が飛び、杏寿郎の意図を汲もうとする。顔を見ようとするとそのまま腕を引かれ、抱き締められていた。
湯上りで寛くつろげられた胸元の素肌に直接頬が触れ、自分の心臓の音が耳の奥で反響している。彼の鼓動も同じ位早く、そして熱い。
「君は、去年は独りで見たのだろうな、と思った」
彼の顔は見えない。背中越しに大輪の花が咲いている。すんと鼻につく、火薬の香りがほろ苦い。
彼の顔は見えない、それなのに――どんな表情をしているのか、分かってしまった。加えられた手の力が、揺れる彼の気持ちを伝えている。
「でも、今年は一緒に見れました」
自分が恥じらって顔を隠したように、彼も見られたくないに違いない。一辺倒な感情ではない、悔恨も慈しみも、歓喜すらも混じっているのだろう。ただ命じられるまま婚姻を結んだ自分達は、遠回りして通い合わせた想いの深さを知っている。
「杏寿郎さま。……時間を作って下さって、ありがとうございました」
先程は口にしなかった言葉を、改めて告げる。何もかもが当たり前に与えられるものではなく、相手を想う気持ちと努力なしには有り得ない。それに報いる為に自分の気持ちも伝わって欲しいと願って、彼の背に腕を回した。
「……また、一緒に見たいですね」
「ではまた、非番をもぎ取ってこねばならないな!」
凡おおよそ、普段の杏寿郎からは出てこない台詞に、呆気に取られる。思わず彼を見上げると、視線が合う。いつも通りの彼の表情と声音に、顔を突き合わせて二人で忍び笑いを洩らした。誰が見聞きしている訳ではなくとも、これは確かに秘め事なのだろう。
ゆっくりと伝わっていく互いの体温の熱さ、じっとりとした汗。竹の舌が鳴らす玻璃の音色、花火の打ち上がる鳴動も、全てが自分の中で溶けて、一つの思い出になっていく。
甘く愛おしく、少し苦い。自分の感情を噛みしめるように、瞳を閉じて全てを彼に委ねた。