降る雨は、いよいよ強くなっていた。木に、葉に、地面に。二人がいる、逃げるように屋根を借りに立ち入ったこの廃寺の屋根に当たっては跳ね返る水の音。
廃墟と言っても差支えない程のあばら家だった。打ち捨てられて年月が経っているのか、碌なものは何一つない。当初こそ羽織や上着の水を切り、参ったなどと苦笑し合っていたなまえと杏寿郎は、今はどちらも口を開かない。
拭い切れなかった水気が徐々に、むわりとした湿気になって肌に纏わりつく。風もなく灼くような陽射しが照り付けていた先刻まで、なまえは暑さに耐えきれずに隊服の上着すらも脱いでいたのが災いした。土砂降りに見舞われれば中の襯衣シャツまでびしょ濡れだ。
(気持ち悪い……)
まだ濡れているに近い衣服でも、なまえは今は上着まできちんと着込んでいる。肌の色や下着まで透けて見えるのを、異性の上司がいる前でそのままにしておく訳にもいかなかった。どの道べったりと貼り付いているものだから、身体の線は露わなままだったけれど。少しでも不快さを減らしたくて服を摘まんでみたりもするが、殆ど意味もない。
嘆息したところで、杏寿郎が動いた。梁に干してあった彼の羽織を取って身軽に着地すると、ふわりと肩に掛けられる。
「使うといい。君のよりかはましだろう」
「でも、これ炎柱の……」
代々継承して炎柱しか着れないとかいう伝統の羽織に間違いない。炎を模した特異な意匠は、見る者は羽織だけでそれを炎柱だと認識する。畏れ多いと辞退しかけたところで、今まで明後日の方を向いていた杏寿郎がちらりとなまえを視界に捉えた。
「目に毒なのでな」
端的に、しかし幾ばくかの優しさを混ぜた台詞にどっと心臓が打つ。上司としての、公平な忠告ではなかった。
ほんの一瞬交わっただけの彼の視線に、雄が滲んでいることを本能で察知する。彼が今、炎柱でなく一人の男として自分を見たことを、なまえは唐突に理解した。
「っ、拝借します!」
大切なものを預かる重責よりも羞恥が勝り、彼の羽織の前を合わせる。微かに耳に入ってきた杏寿郎の笑い声が、いつものような威勢の良いものだったら良かったのに。つい洩れてしまったのだろう彼の感情の一部が、自分がよく知っている普段の『煉獄 杏寿郎』と違いすぎている。
自分まで調子を狂わせて、この雨に隔絶された二人だけの空間に取り込まれそうだと思った。
▽
もう、小半時はこうしているだろうか。
時折聞こえる雷鳴と雨音だけに耳を澄ませるようにしていると、草履が土を躙にじる気配にさえ気を取られた。意識して見ないようにしていた杏寿郎の方に、なまえは振り向いてしまった。
「……ぁ、」
薄暗い廃屋の中で青白い稲光を受けて立っている杏寿郎は、まるで知らない人間のようだった。彼を男らしいだとか精悍であるとか、恰好いいと評する人間は多くいるだろう。実際なまえだって何度も彼に見惚れてきたが、しかし、そういうのとは違うのだ。
「どうした」
目を離すことができずにいたなまえに、杏寿郎が声を掛けて寄越してくる。ふっと細められた目が、余り見せることない彼の柔らかさを湛えている。
雨に打たれて完全に落ちた前髪と、毛先からぽたりと伝う雫。金色と緋色の混じった煉獄家特有の容姿が煌めいている。それは水滴のせいなのか、或いは稲妻のせいなのか、なまえには分からない。ただ抗うこともなく惹きつけられ、初めて彼を綺麗だと思った。
綺麗などという形容詞は、彼に似つかわしくない。そういう面を、彼も見せてこなかった。無防備に晒された隙のようなものが、自分にだけ許されていると錯覚させる。
「みょうじ?」
じゃり、と砂を踏む音がする。長い上司と部下の関係の中で、杏寿郎が男女を持ち込んだことはない。少なくとも、それを匂わせるようなことはしなかった。なまえが一方的に、心の中で彼を慕っていただけだ。
「煉獄さ……」
目前に杏寿郎がいる。なまえより背丈の高い彼を仰ぎ見ようとすれば、ふわりと頭に白い布が降った。
「何も言うな」
視界が遮られ、彼の顔の下半分、引き締められた口元だけが見えている。使われていないだろう手拭は、彼の懐にあったからか生温ぬるい。綺麗に洗濯して干されたお日様の匂い、滲みた雨水の生臭さと、何時何処となく馴染んだ彼の香りがなまえの想いをじくじくと疼うずかせた。
「今は、何も言わないでくれないか」
使えば良かったのに。あれだけ酷く濡れてしまったのだから、彼はなまえになど構わずに自分を拭けば良かった。こんな所で、こんな風に、その優しさを自分に向けないで欲しかった。
杏寿郎が片鱗を見せるから、なまえだってうっかり彼に自分の拙さを見せてしまったのだ。見て見ぬ振りができる位には繕えていた筈だった。本当は、ずっと隠しておきたかったのに。
――ズルいです、私だって。
彼の懇願に、何も言えずに飲み込んだ。きゅっと噛みしめた下唇に、硬い皮膚が触れる。
はくりと飲んだ息を吐き出していく。気付けば空は陽の光を取り戻したのか、暮れの茜色に染まり始めている。薄く開いた口をなぞるように滑っていった指先は、二度と戻ることはなかった。
「止んだな」
開けた視界と眩しさに、目を眇める。暖かな橙色に彩られた彼は、いつもの『煉獄 杏寿郎』だった。後は、なまえもいつもと同じように戻ればいい。
「……まだ、雷は行ってません」
頷いて部下としての領分に収まるつもりでいたのに、滑り落ちた言葉は真逆だった。杏寿郎の真ん丸な目も驚きに満ちている。
「よもや、怖いのか?」
つい先程まで間近で響いていた轟は、今は少し遠くから聞こえている。切り裂くような鋭さから地を這うような鈍い音へと変化し、離れていったことが伺えた。
「はい。だって――打たれたら、嫌じゃないですか」
「違いない!」
淡く笑顔を浮かべたなまえに、杏寿郎も笑う。生気に満ちて、力強い声に安堵する。先には行けない。けれど、戻ることもできない。もう打たれてしまったから、少しの間だけ、このままで。
なまえは刹那の間だけ瞼を閉じ、遠雷の音を耳に受けた。
『Salai,』 1-Year Request / 夏:夕立