ふらりと立ち寄った店の陳列棚に懐かしい物を見つけ、思わず手を伸ばすと自分のものより一回り小さな手とぶつかった。触れた箇所から、微かに擦れたようにぴりりとした刺激が走る。指先から腕を抜け、辿りついた視線の先はお互い見知った顔だった。
「煉獄さん!」
「みょうじだったか!」
ほぼほぼ同時に声を発していたのは、恐らく気のせいではなかっただろう。顔を見て、妙に納得した。明らかに自分とは違うのに、分厚い皮膚、肉刺まめだらけの手は、女性らしい華奢なものとは程遠かった。何度も同じ任務を果たしてきた、信頼に値する部下と言っていいなまえであるなら得心がいく。それでも、何故彼女が此処にいるのかは解せないままだった。
「仕立屋に用があったのか?」
洋装の仕立屋に、なまえがどんな事情で立ち入ったのかは知りようもない。貴重な非番の昼間、ここらに居並ぶ店はどれも敷居が高いものばかりだ。
「いえ、たまたまです」
いかにも当たり障りのない返事を寄越したなまえに、鷹揚に頷く。そうか、と応えると、追及されなかったからか、彼女は口元をやんわりと緩ませた。店内の薄暗い中で、ふと洋灯の火を大きくしたような錯覚を覚える。
「同じだな」
さて不思議なものだ、と思ったところで誰かが答えてくれる訳でもない。店の主人は他の客への営業に執心して、こちらは放っておかれたままだ。もっとも、何か買うつもりで入店した訳ではない自分にとっては都合がいいのかもしれないが。
「君が、こういったものに興味があるとは思わなかった」
男物の仕立屋の外から窓越しに見えた懐中時計は、蓋はなく鎖のついた、広く流通している形だ。文字盤は漢字でも数字でもない奇天烈な線で表されていて、これは異国の数字なのだと聞いたことがある。比較的裕福な職業人が持つものであって、庶民の出のなまえが何故知っていたのだろう。
「ああ。これ、何です?」
自ら手を伸ばしていたにもかかわらず、彼女はこちらが驚くほど淡白だった。異性だからなのか、彼女はいつも掴みどころがなく、杏寿郎の理解の範疇を超えてくる。自分の予想とは程遠く、知らないものの為にわざわざ店に入ったのだろうか。
「持ち歩ける時計だ」
「お偉い方々が使うものですか」
「違いない!」
端的な説明で本質を言い当てたなまえに、杏寿郎は声を上げて笑った。庶民は時間を気にしない。時間を気にするのはお上ばかりで、なまえどころか杏寿郎にすらこれは必要ないものだ。ふっと小さな笑みを零し、彼女は引いていた手を今一度時計に伸ばした。
「奉公先の旦那様が持っていたので、懐かしくて。煉獄さんは?」
凡おおよそ少女とは思えぬ荒れた指先が、ガラス面をゆっくりと撫でている。鬼殺隊員の多くの例に漏れず、家族も奉公先も鬼に喰われたなまえは同じ年頃の少女よりも冷めている。感情の発露が極端に鈍く、自分を分厚い壁で覆っている彼女の滅多に見せない一面を、杏寿郎は垣間見た気がした。
「似たようなものだな。昔、母から見せてもらった」
なまえは、持っていた懐中時計をきゅっと抱き締めた。瞬きほどの短い間、柔らかな視線がそれを見ていた。睫毛が震えている。
「……どちらも、亡くなった人の思い出の品ということですか」
殆ど変わらない表情のままで杏寿郎を見つめたかと思えば、彼女は時計を自分にそっと手渡した。まるでとても大切なもののように、優しく、丁寧に。
ずしりとした重みと共に、金属の塊が手の中でひんやり存在を主張している。自分のものではない。自分には不要で、買い求めようと思ったこともない。ただ、昔の懐かしい幸せだった頃の象徴なのだろう。杏寿郎も、つやつやの傷一つない美しい時計を見る。
あれはくすんだ金色で、傷もたくさんあった。あれはどうしただろうか。父に捨てられたか、母と共に埋めたか。或いは、葛籠の中にしまいこんだのだったか。遠い思い出とその行く末が脳裏に蘇り、無意識の内に握りしめていた。先程の彼女と、同じように。
「時を持ち歩くのですね」
真鍮が軋む。湿った皮膚にべたりと貼り付く不快感。時を携えるのですよ、と母は言った。違う時、違う人が同じことを言う。綺麗な思い出に浸り同列に語るには、なまえと母とは趣が異なり過ぎている。
「戻ってしまえばいいのに」
ぽそりと呟いたなまえの声は、店の中に吸い込まれるように消えていった。口に出したつもりはなかっただろう。聞かぬ振りをすれば良かったものを、つい彼女の顔を凝視してしまった。
「時は戻らないものだ」
「知っています」
気が付けば、説教染みたことを言っていた。視線が合っていたのはほんの僅かな間で、なまえはややバツの悪そうな表情をすると、目を伏せる。薄っすらと瞼を開けた時、彼女は時計を耳に当て、また閉じた。
「優しい音。……まるで、心臓の音みたい」
言葉が何も出て来ない。何故か、彼女のこの一時を侵してはならないと思った。外の喧噪が遠く聞こえている中、二人の間には静寂が保たれている。こち、こち、と歯車が時を刻む音が杏寿郎の耳にまで届いていた。
「生きている音か」
成程、確かに優しい。吹けば飛んで消えてしまいそうな儚い命とは違う。同じ調子で、静かに、けれど確かに存在している。ぜんまいを巻けば何度でも、蘇り動き出すのだ。
「君は、生きているか?」
なまえは決して弱くない。ただの一奉公人から地獄を見た後、生半ではない修行を経て、今もこうして生きている。剣術も呼吸も、出会った時の細腕からは考えられない程に上達した。
なまえは今、間違いなく生きている。しかし、彼女は杏寿郎の顔を見て暫し黙りこくった。
「煉獄さんに助けてもらった命ですから、全うしなければならないと思っています」
ゆっくりと、言葉を選びつつなまえは答えた。脈を打ち、鼓動は鳴る。けれど、彼女の目は死んでいる。生き永らえたとて、彼女はまだ何の為に生きるのか見出せていない。
「人を枷のように言ってくれるな」
苦笑し、なまえの頭に軽く手を乗せた。あの地獄から助けたのは、自分だった。死んでもおかしくない状況で生き残った末が、何故お前が生きていると謗られ、行き場もない様だなどと――どうして、捨て置けただろうか。
幾つかの事実だけが彼女を生に繋ぎ止めており、その一つが自分への恩義であることに間違いはない。手を出した以上、最後までやる。せめて、彼女が自分で生きたいと思うようになるまでは。
「ご主人、この時計を包んでくれないか!」
接客を終えてこちらを伺っていた店主に声を掛ける。一際大きな呼び声が店に響き、なまえは肩を揺らした。主がいそいそと包んでくれた時計はすぐに仕上がり、代金を支払う。
「君が持っているといい。螺子を巻くと、力強い音がする」
「煉獄さん、私には――」
杏寿郎が結構な金子を出すのを見ていたなまえは、渡された時計と杏寿郎の顔を戸惑いながら見比べた。高価な品を持ち慣れていない彼女に贈るには不似合いなそれが、小さな手の中で動き続けている。
「生きている音なのだろう?」
規則的な振動を確かめるように、なまえの掌に自分のものを重ねる。自分よりは遥かにましだが硬く、荒れ果てた手。触れた瞬間に強張った固さに、脈と、それよりもゆっくりとした秒針の動きを感じた。
「俺には必要ない。君が持っていなさい」
喪くした人の思い出は同じでも、杏寿郎もう囚われてはいない。既に昇華した母への想いは、彼女とは違う。なまえと視線を合わせると、今揺れている瞳は彼女の弱さ脆さを映し出している。
浸りたい思い出と共に前を見つめる力を、彼女に。全ての者を助けられるなどと自惚れてはいないが、目の届く範囲にいる者には、自分の意志で強く生きていて欲しいと願う。これがその一助となればいい。
「……はい」
なまえは、今回は真っ直ぐに見てくる杏寿郎の視線から逃げようとはしなかった。苦し気に表情を歪め、口から洩れた喘ぎと共に目をきつく閉じる。己の感情を堪え、与えられた契機の意味を噛み締めている。上品な色合いの包み紙が乾いた音を立て、深い皺を寄せた。
「ありがとうございます。いつも、共に」
絞り出された礼に杏寿郎は破願して頷き、なまえも、とても美しいとは言えない歪な笑顔を返した。いつも小さく丸まっていた背を力強く叩く。
伸びた背は高く、力は自然に抜けていた。
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