ふわふわ、ゆらゆら。
微睡みの中で揺蕩うように、意識ははっきりとしない。ただただ暖かくて優しい、心地よさがすっぽりと身を包み込むかのような多幸感で溢れている。とても遠い所から音が聞こえているような気がした。
――呼んでいる。
キンキンとした高さはなく、やや低い。耳に馴染む音程はゆったりと、ゆっくりと流れている。図書館の隅の机に上体を伏せていたなまえは、まだぬるま湯に浸かったまま覚めたくはなかった。目を閉じたまま、一度深く息を吐く。
「みょうじ」
先程より一段大きいなまえを呼ぶ声は、場所を考えてか、彼らしくない位には抑えられている。少しだけ間を置いて、片方の耳から外の世界が流れ込んできた。
「……何するんですか、煉獄さん」
耳を塞いでいたイヤホンを引き抜かれ、否応なく様々な音で現実に引き戻されてしまった。身体を起こさないまま、なまえは薄く目を開けて自分を呼ぶ声の方に視線だけを向けた。
「寝る場所ではないな」
「私、レポート終わったんです。他の皆はまだ?」
本来なら勉学に勤しむべき場所での後輩の怠惰な姿に、相変わらず筆の早いことだ、と彼は呟いた。感心したのか呆れたのか、なまえの頭を軽く一つ叩くとイヤホンを返して寄越す。
片方のイヤホンからは、まだ音楽が流れ続けている。まるで男性の声のようなと称されるそれは、穏やかに、しかし確実に耳からなまえを侵していった。そして、その平穏さは自分の思考までも蝕んでいくのだ。
――なんと長閑なことだろう。
どうしたことだか、百年も前に共に刃を手に取った同志達と再びこうして出会ってしまった。しかも、同じ大学に。以前と比べ、したいことをしたいようにできる幸せをなまえ達は皆、嫌になる程よく知っている。
けれど、生命が脅かされる瞬間に見た赫い煌きの美しさを、もう見ることはないのだろう。極限の生活を強いられていた中で得られたものの尊さもまた、今はない。怪我を負った時のヒリつく痛みも、仲間を喪った時の激情も、こんなに鮮やかに思い出すことができるのに。
「何故笑う?」
自分が今生きている世界なのに、自分がここにいないかのように錯覚する。記憶を取り戻して以来ずっと付き纏われているこの落差に、未だに慣れることができない。なまえは気付かぬ内に乾いた笑い声を漏らしていたらしい。
「だって、おかしくって」
うつ伏せたままの体勢から、僅かに身体を持ち上げる。立ったままこちらを覗き込んでいる杏寿郎は図書館の大きな窓から射し込む陽光を背にし、いたく眩しい。埃が光を受けてきらきらと輝く様が、まるで彼の火の粉のようだ。
「煉獄さんの声、全然違うもんだから」
快活な声は張りがあって、遠くまで通る。薄暗さとは無縁に生気に満ち溢れている。なまえを引き戻すのは、いつも彼の声だった。
「意味が分からないな!」
このぬくもりに満ちた優しい世界の中で、そのままどろどろに溶けてしまいそうになる。忘れることなんてできない、忘れてはいけないと祈りながらも、真綿で首を絞めるように『昔の自分』は消えて死んでいく。
なまえは、自分のイヤホンを片方杏寿郎に渡した。受け取った彼は素直にそれを耳に差し、サイズが合わなかったのか片手で押さえている。今自分が聞いているものと同じ音楽を、二人で共有する。
「クラシックか」
「そう。無伴奏チェロ組曲」
聞いていると身体の内に染み込んでいくように馴染む音楽は、聴く人間を安堵させる響きを持っている。
「死にそうな時に煉獄さんの声がしたら、ものすごくほっとした」
彼の声も同じように、聞けばたちまちなまえを安心させた。チェロの音と同じだ。同じなのに、何故こうも違うのだろう。思考が霞みかけた時、音楽は不自然に途切れ、聞こえなくなった。
「思い出に毒されるな」
眉を寄せた杏寿郎が、なまえを見下ろしている。彼の手には、二つのイヤホン。まだ微かに音の粒子が舞い踊っていたものを、緩く握りしめた彼の拳がそれすらも遮断した。
「形は違うが、紛うことなき幸せを知っている。それでいいのではないか?」
「形は、違う?」
覚醒しろ。目を覚ませ。彼の強い声が、赫眼の鋭さが、なまえを呼び戻す。雲がかかったのか、太陽の柔らかな色合いがじわりと影を滲ませ、体感温度が急激に下がった。
「以前は望むべくもなかったことに手を伸ばそうと思ったんだ」
なまえの隣、引いた椅子に杏寿郎が座る。軋む木の音が静寂に鳴り、やけに耳に残った。隙間一つ分だけ空けた、普段よりも近い距離と同じ顔の高さ。伸ばされた手に、どくんと心臓が鼓動を打つ。
なまえの髪を一房、杏寿郎は手に取った。大きく開かれた目が細められ、かつてよりも手入れの行き届いた髪を見つめている。彼の武骨な親指が、大切なものを撫でるように擦った。
「――君は、どう思う?」
視線を上げた杏寿郎と目線が合う。光を受けて艶が照らされ、解放された髪はさらさらと彼の掌から零れ落ちていった。
「煉獄さんは、柱です」
目を離せない。今ここにいるのが自分ではなかったとして、彼と、この光景を美しいと思った。彼が言うように、形は違う。もうあの時に戻ることはなく、あの焔の美しさも皆の生命の儚さも決して感じることはないのだろう。
「変わらなかったんです、ずっと。でも……」
今もまだ、なまえは彼に惹かれている。けれど、彼は変わったのだ。確かに。
幸せを追い求めることを、彼は自分自身に許した。同時に、なまえは彼に導かれたいと、彼に柱の重責を未だに求めている浅ましさを自覚してしまった。
「捕らわれて、今の幸せを見失わないように!」
ぱっと咲いた笑顔と共に、頭をぐしゃぐしゃに撫でかき回される。かつてと同じ、気心の知れた仲間にするそれは、まだ中途半端なままのなまえを許すと教えてくれた。
「次は、ぜひ君の幸せについて聞いてみたいものだな」
彼の幸せ。彼の伸ばす手の先にあるもの。なまえだってそこまで鈍くはない、もう分かっている。こくりと頷くと、肩に添えられた手がそっとなまえを引き寄せる。
「次はもう、待たない」
耳の傍近くで囁かれた声は、聞いたことがない位に甘かった。