車窓にふと目をやると、まるで磨すりガラスのように真白く煙けぶっていた。
冷えるとは思っていたものの、外との温度差に杏寿郎はひどく驚く。水滴越しに外を伺えば、風に舞う花びらのようだった粉雪はいつの間にかしんしんと降っている。雪とはいえ、これは傘がなければ厳しかろう。
耳に馴染みつつある下車予定の駅名がアナウンスされたところで、スマホが微かに震えて通知を知らせた。ゆっくり落ちていくスピードと、カーブを曲がる時の微かな浮遊感。
漢字に変換する時間も惜しんでいたのだろうか。彼女からのメッセージは、短く『むかえにいく』とだけあり、湧き上がった感情は素直に顔に滲み出る。
緩んだ顔など、他人から見ればただの気持ち悪い人ではないか。杏寿郎は、指先でしゅっと画面を消した。口元を引き締めながらも、ふわふわとした気持ちは電車のせいか更に加速していく気がした。
▽
「遅い!」
改札を抜けて出た裏口に立っていたなまえは、開口一番そう言った。電車が到着して時間が経ち、次の電車との合間だったのだろう。降りた時にはあれ程いた乗客も今は殆どない。厚手のコート以外に目立った防寒具を身に付けていない彼女は、片手に傘を一本だけ持っている。
人にもっと自分に頓着しろと小言をくれる位には、なまえは普段から如才なく立ち回ることのできる女性だ。そんな彼女が、手袋もマフラーもなく、人数分の傘さえ持たずに迎えに立つというアンバランスさ。入れ違いにならないよう、待たせないようにと気遣ってくれたことには杏寿郎だって気付いているが、それを指摘するのは余りにも野暮というものだろう。
「待たせてすまない。――来てくれてありがとう」
肩の上に溶けずに残っている雪を手を伸ばして払ってやれば、杏寿郎を仰ぎながら薄っすらと微笑みを浮かべて見せる。自然に漏れ出したなまえの表情に、手を出したい衝動を何とか堪えた。
自分の教師という時間の儘ならない職業に、文句を言うこともない。普段は寄り掛かり過ぎない彼女のふと見せるあどけなさは、たまらなく杏寿郎の庇護欲を刺激する。紙袋を彼女に押し付けるようにして持たせ、顔を逸らした。幾ら人通りがないとは言え、ここでは駄目だ。
「なに?」
「遅くなった理由だ」
彼女が好みそうなものと、自分のシンプルなブラック。確認されている中身は、駅のコンコースにある店で買ったコーヒーだった。
「今から帰るのに、わざわざ買ってきてくれたの? あったかそう」
なまえはショッパーを漁りながら中身を確認し、取り出している。触れた時には白く、痛い位に冷えていただろう指先が少しでも温まればいいと思った。
そんな想いを口に出したりはしないが、こうして表情と滲み出る雰囲気が緩んでいく様を肌で感じるのは隣にいる人間の特権だろう。余り意識することもない日常の中、ふと気が付けることができれば自分の気分も上に向く。
「杏寿郎……溶けてる」
情けない位に落ちたなまえの声と表情が、杏寿郎を現実に引き戻した。差し出されたものを開けるまでもなく分かる。チョコレートは指先で押すだけで容易く形を変え、ほんのりと暖かい。冷やして固めれば食べるのには支障はないだろうが、本来の味やくちどけからはかけ離れてしまうことに間違いなかった。
「冬限定のチョコレートっていうのはね。溶けやすいんだよ」
冬限定でなくても、熱い飲み物と同梱すれば溶けるに決まっている。慰めになっていない慰めに、杏寿郎は無言でコーヒーを受け取った。スリーブ越しでも伝わる熱さは、自分の当初の目論見通り、手をしっかりと温めてくれた。
「いや。……失念していた! すまない!!」
ああ、せっかく喜ぶと思って買ったのに。店員の袋を別にしますか、という申し出を素直に受けておくべきだった。溶けたものは仕方がないとばかりに潔く謝罪すると、なまえは可笑しそうに声を漏らした。
「たまに抜けてる」
なまえは自分のコーヒーを取ることなく、一粒、包みを剥いた。ぐずぐずに溶けて形を失ったチョコレートに塗まみれたラムレーズンが、彼女の指を汚している。
「むっ。そんなことはな……」
「あーる。たまに、だけど」
否定は即座に打ち消され、レーズンを摘まんだ指先が口のすぐ近くまで寄せられる。悪戯を企む子供のような笑顔が、或いは、今の杏寿郎には淫らに誘う大人おんなのように見える。
何か物を言おうと口を開けば、彼女の指先が唇に触れ、彼女の指先と同じ色に杏寿郎を汚した。そのままぐいと押し込まれ、洋酒とカカオの芳醇な香りが舌の上でとろけていく。杏寿郎とは違う細く節のない指は冷たく、ゆるりと自分の体温を吸って温くなる。
――甘い。そして、酔いそうだ。
引き抜かれていくぬくもりを、惜しいと思ってしまった。自分の感覚とは別に、実際には一瞬のことだったのだろう。息を吐くと、思いの外大きな音がした。
あくまでも努めて冷静を保とうとする杏寿郎を揶揄かうように、彼女は自分の指先を舌でちろりと拭っている。白い世界に、その赤い色がやけに映えた。
「私も多分、そうだから」
なまえはそれに気付いているのに、直す気もないのだ。自分は様々なものを許されているということに、初めて気付いた。杏寿郎がなまえの前で気を張らないことも、なまえが杏寿郎の前で取り繕わないことも。その緩みすら、相手なら受け入れられる。
「なまえ……」
挑戦的にも程がある。覚えておけよ、と小さく唸ると彼女は嫣然と笑った。目まぐるしく移り行く表情に翻弄されているのに、不思議と悪い気はしない。
腕を掴んで引き寄せる。傘の先端ががつっと脛に当たった。それなりの痛みが熱を持ち、じわじわと広がっても、止める選択肢はなかった。
周りには、誰もいない。
「杏寿ろ……ッ!」
気遣う素振りを見せた彼女の手を持ち上げ、顔を僅かに下げる。ちゅっと音を立てて親指にキスを落とし、そのまま口に含むと甘い蜜のように溶けたチョコレートの味がした。
「帰ろう。また冷えては敵わない」
すぐに解放し、深く絡ませるようにして手を繋ぐ。手に付いた甘いべたつきさえも愛おしい。
なまえの指先は、種火を灯したように熱かった。
『Salai,』 1-Year Request / 冬:冬季限定チョコレート