手が。触れているところが、熱を帯びている。
加減されていると分かる一方で、『強い』ぎりぎり一歩手前の感覚に、彼が逃がさないと言っているようにさえ感じた。繋がっている手の感触しか追うことができなかった。金曜日の夜の繁華街はたくさんの人で溢れているのに、人も声も、何もなまえには届かない。
痛みはない。しかし、緊張でいつしか身体の震えは手首にまで及んでいた。
「煉獄君」
脈打つ心臓が、喉の奥で反響しているようだ。なまえは、前へ前へとずんずん進む杏寿郎を呼んだ。怖気づいて小さくしか出なかった声もまた、完全に揺れている。
「っ、煉獄君!」
止まってくれない彼は、何時までこうなのか、何処まで行くのかも分からない。このままではどうにかなってしまいそうで、なまえは再び彼を呼び、もつれるように動かしていた足に力を込めた。
「むっ! すまない、痛かっただろうか」
異変に気付いた杏寿郎が、ようやく立ち止まる。二人の視線はなまえの腕に注がれ、自然と掴む力は優しくなった。
「……ううん」
嵐に攫われてしまいそうな得体のしれない不安が、輪郭を得て現実味を帯びてくる。それだけで、ほっとした。真っ直ぐで誠実だった彼の性格は、きっと変わっていない。だから、なまえは彼が自分に酷いことなどする筈がないと信じることができた。
「もう少し行こう。ここは、人が多すぎる」
安心させるように微笑んだ彼に頷く。腕が離されることはやはりなく、自分のすぐ斜め前で、明るい髪が靡く。太陽の金色と炎の赫が混じった、彼らしく、彼を形作っている要素の一つ。
彼の目も、髪も、見るのが大好きだった。そんな高校時代を思い出して、心臓はまた打つスピードを変えた。
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「煉獄、お前なぁ。真面目かよ」
卒業式の後、通りかかった教室から聞こえてきた級友の声に、思わず足を止めてしまった。扉の陰に隠れてそっと伺う。まだたくさんの生徒がいる廊下で、怪しいことこの上ない。
いたのは、一年間一緒でよく知った面子ばかりだった。その中でも一人、殊更目立つ明るい髪を持った少年が黒板の前に立っている。
「そうだろうか」
クラスの――いや、学校中の人気者だった杏寿郎は、チョークを元の場所に置いた。一心に黒板から逸らさなかった顔にやや影を落とした一瞬を置いて、彼は友人達の方に何でもないように振舞う。本当に僅かな歪みに、なまえは堪らなく切なくなった。
「ただ、好きなんだ」
彼は、本来は人の目を真っ直ぐ見て話す人だ。そんな彼が、話している最中でも一瞬明後日の方を向くことがある。すぐにきちんと顔を合わせたとしても、その話題は大概『彼自身』のことだった。
「もー、そういうこと言うの止めなよ」
自分自身の感情など、大したことではない。気持ちを押し隠して、クラスメイト達を体よく追い払うようなことを言う。彼らは文句を言いながらも教室を出ていき、残ったのは二人だけになった。
なまえも彼も、何も話さない。
開け放たれたドアと薄い壁に隔てられた向こうは喧噪の中にあるのに、二人の間はしんと静まり返っている。顔を見合わせた時、凡そ彼らしくない歪いびつさは、既になかった。
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辿り着いたのは知らない街の、縁のない学校の傍にある公園だった。壁の向こうで、遅咲きの桜が満開になっている。四月も半ばを過ぎて、まだ咲いている所があるのか。
ベンチに腰掛けて人心地つくと、途中で買った缶コーヒーを渡される。タブを開いてちびちび飲む自分とは対照的に、彼は喉を鳴らして一気に飲んでいる。彼の変わらない様と、二人はこうも違うのだと考えるとおかしくなってきて、ふっと笑ってしまった。
「みょうじ。その」
つい笑ってしまった自分を、彼はどう取ったのだろう。ばつが悪そうに頭を掻いた杏寿郎は、なまえの隣に座った。彼が飲み干したかに思えたコーヒーはまだ残っていたらしく、ちゃぷんと中身が跳ねる音がした。
「手荒に連れ出してしまって、悪かった」
あの時憧れて、ずっと心の奥底で想っていた人が隣にいる。諦めていた。再会できるなんて、どうして予想ができただろうか。前屈みに座る彼の、やや上目遣いに頬が熱くなる。
「……いきなりで、びっくりした。始まる前に抜けることなかったのに」
薄暗いから、きっと気付かれることはない。
謝られるようなことをされた覚えはない。唐突であったことは確かで、向こう見ずと言えば向こう見ず。しかし、思ったことを違えず、誤魔化さずに速やかに実行に移す様は彼らしかった。
「他の男の目に入れさせたくなかったからな」
咎めるでもなく苦笑しただけのなまえに、からりと笑って杏寿郎が言ったのは、想像していたものとは全然違っていた。明るくて、快活で、言っている内容に関わらず、後腐れがない。全て前面に出しているから、嫌らしく感じないのだろうか。
「……そういうこと言うと、女は勘違いするよ」
独占欲を顕わにした物言いに、少なからずなまえは驚く。ただの元クラスメートに言う台詞ではない。杏寿郎のことだから、特に深い意味はないのかもしれない。なまえの中では、彼に色恋沙汰のイメージがなかったのだ。
「勘違いすればいい。そういう意味で言っている」
そう聞こえなかったか。彼は、なまえを捉えながら言った。
ひゅ、っと喉が鳴る。逃げる隙を与えてはくれない。強い視線に絡めとられるように、身動きが取れなかった。そういう意味とは、どういう意味なんだろう。そもそも、自分は彼から逃げたいんだろうか。ぐるぐると嗜好が駆け回り、喉の奥で詰まった息と感情を、なまえはごくりと飲み込むしかない。
「れ、」
「ついこの間、みょうじのことを思い出した。もう会えないだろうと思っていたら、これだ」
インターバルを置きたくても、無駄だった。名前を呼ばせてさえくれず、なまえが考える間もなく、彼はとつとつと話し始める。
「今教師をしているんだ。先月が卒業式だった」
「…………」
「俺もどうしたいのか自分でもよく分からない。だが、知らない振りはできそうになくてな」
知らない振り。見なかったことにして、深く考えることなく、また日常に戻っていく。なまえにとって――きっと、杏寿郎にとっても、『今』は非日常なのだろう。なまえは口を挟まなかった。彼も、それを当然のことのように受け入れて、ただ話していた。
「あの日、何を言い掛けたんだ」
杏寿郎の言う『あの日』が何時のことか、なまえにはすぐに分かった。分からない筈がない。あの日のことは、きっと忘れられることはない。二人の間にだけ起こった、ほんの一時のやりとり。
「……それ、今更聞く?」
今更――本当に、今更だ。もう卒業して何年も経っている。その間には何もなかった。
なまえの中で、心の奥底でずっと眠らせ続けていた記憶だ。時に揺り起こしては綺麗な思い出に浸っていた。もう戻れないと分かっているからこそ、美しい。ほじくり返して、汚したくない。
「言っただろう。もう知らない振りはできない」
あんなに想っていたのに。彼はあの頃と変わらず、こんなに真っ直ぐなのに。
彼への淡い気持ちを拗らせていた時とは相反する現実への拒絶感は、なまえを自己嫌悪に陥らせるには充分だった。情けない自分に、彼を見ていられずに視線を地面に落とす。
街灯のライトがなまえと杏寿郎を照らし出している。二人分の影を観察しながら、ゆらゆらとぶれる自分と、どっしりと構えて少しも動かない彼を、じっと見つめていた。
「俺は君のことを思い出してしまったし、君とまた出会ってしまった」
「何年振りだと思ってるの」
「分かっている。俺がもう後悔したくないだけだ」
あれ以来、積極的な恋愛を避けてきたなまえにとって、男女関係の経験値は下限に等しい。それでも、彼の言動は一つの方向に流れていて、その先が想像できない程鈍くはない。
「君が、好きだった」
たった一言。
真摯で彼らしい、直球で何の躊躇いもない言葉がずっと頭をリフレインする。過去形だったことで、一抹の落胆と安堵が胸の内を支配した。
「あの頃、君が俺の性根をかっこいいと言ってくれたことが、とても嬉しかったんだ」
悩みのない男子高生なんていない。彼が思っていたことも、彼自身も、皆が思っている程曇りないものではなかったのかもしれない。自分の存在は、彼にとって意味があった。
あの時、彼・を知ることができて良かった。今、彼が喜んでいてくれたことを、知ることができて良かった。彼を好きになったことも、引きずり続けたことさえ、間違いではなかった。心の底からそう思う。
「煉獄君。私ね……」
ざわりと風が吹いた。あの時と同じように、なまえと杏寿郎の間を通り抜けていった春風は、想いを散らすように花びらを舞い上げている。無風となった時、残滓がひとひら、彼の髪を飾っていた。
「私、ずっと煉獄君のこと、好きだったよ」
ずっと伝える機会を失っていた気持ちは、驚くほど自然と口から滑り出ていた。そっと手を伸ばし、彼の頭から花びらを取った。なまえの指先から、ひらりひらりと薄紅色が落ちていく。
「教えてくれて――伝えさせてくれて、ありがとう」
「ああ」
お互いに笑顔で、こんなに穏やかに、初恋に幕を引くことができるなんて。長い間不完全燃焼だった感情として、この上ない終わり方だ。
「すっきりした! やっと蹴りつけれたよ」
「蹴り?」
「ずっと引きずってたから。お互い、これでようやく終われるね」
ベンチの、自分の傍らに缶コーヒーを置く。緊張したせいか、肩がぎしぎしに凝っていた。手を上に伸ばして、力を抜く。きっと、彼も自分と同じだろうとなまえは考えていた。
「みょうじ。俺は、終わりにしたいとは思っていない」
「……え?」
二人の間にあった空気の温度差が、彼の台詞で明確になる。冗談ではない、彼は本気だ。性分故に場の空気を読まないことはあったが、そういうつまらない冷やかしをする人ではないと、なまえは知っている。
しかし、なまえは素直にはいとは答えられなかった。先程一瞬感じて、打ち消されたと思った不安が蘇ってくる。長い年月を経て、これ・・はもう、とうに成就させたい想いではなくなっていた。
「煉獄君、私変わったよ。あの頃みたいに素直に煉獄君のこと、かっこいいって言えないかもしれない」
あの時、好きと思った彼が今はどうなったのか。彼が好きだと思ってくれた自分の美点は、まだ残っているんだろうか。
「子どものままではないんだ。俺も、君も。あの頃とは違う」
「がっかりさせないか、私は心配なの」
こんな筈ではなかったと、後悔したりはしないだろうか。思い出は思い出のままにした方がいいんじゃないだろうか。躊躇いなく前に一歩踏み出すには、なまえは狡い大人になり過ぎている。
「不変なものなどあるものか。君がどう変わったのか、俺は知りたい」
「だって。でも。…………いいの?」
自分の両脚の横に置いた自分の手を握りしめると、どんどん白く冷たくなっていく。そんななまえの片手を、隣に座っていた杏寿郎の大きな手が上から包み込んだ。触れた掌と、触れそうな位に近い互いの肩から、じわりと体温が伝わってくる。優しく乗せられているだけだった手が、彼の意思を以ってなまえを捕らえにかかった。
――それは、許しだ。
余りに幸せで、眦が熱くなっている。
なまえも小指を絡めて応えると、握りしめる力は更に強くなった。
『悠久の月に輝く君へ3』