卒業式後の学校は、まだ喧騒に包まれている。三年生はおしゃべりを続け、記念品の交換やら写真撮影やらでする事が尽きない。大人とは違った形で、今日で終しまいの高校生活を惜しんでいるのだろう。
杏寿郎はざわめきの中心から離れた場所――自身が担任を受け持つクラスの教室にいた。先程まで、上級生を見送る側の生徒たちがいた場所だ。
「煉獄先生、さよーなら! 今までありがとうございました!」
たまたま通り掛かった女生徒達が挨拶を寄越よこす。胸元にリボンをつけ卒業証書の入ったケースを持った彼女たちの表情は、それぞれの新しい進路への期待と高校生活への回顧が入り交じっている。その様が眩く、若いな、と思う。
「あぁ、卒業おめでとう! これからも向上心を忘れず励むようにな!」
「はーい!」
教科担当程度でも、見知った生徒たちが巣立つのは感慨深いものがある。大きな手で頭を撫でてやると、彼女達は女子高生らしくキャーっと黄色い声を上げて走り去っていく。
まるで春の嵐だ。
目を細めて彼女達を見送ると、そこは無音ではなく、煩うるさくもなくなってしまった。杏寿郎は窓際の席に座り、ついた肘に頭を預ける。瞼を閉じると生徒たちの声がとても遠くに感じ、奇妙な感覚に陥った。
窓から入るからりとした暖かな風が髪を揺らし、頬を撫でる。自分の他には誰もいない空間が、何だかひどく心地良い。一際強い風が吹き、目をカッと見開くと、窓の外で咲き始めたばかりの桜の花びらが激しく舞い散っている。思わず立ち上がって桟に手を付いた。
手の甲に、ひとひらの薄紅が乗る。
――煉獄君、私ね……。
一陣の風が思い起こさせた、あの春の門出。掌に落ちてきた花は、同じ色をしていた。
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卒業式の式典が一通り終わってしまえば、後はもう卒業生が好き放題する時間だ。丸暗記させられた言葉、うんざりする程長い来賓の挨拶、何よりも一年間縛り付けられてきた受験という名の檻からの解放。羽根を伸ばさずにいられようか。生徒指導が何だ、今日で最後なのだ。模範的な優等生然とした杏寿郎だって、青い高揚感と哀愁に満ち満ちている。
講堂から順に退場してきたクラスメイト達と、教室に戻って黒板に落書きをする。中央に卒業おめでとう、と担任が書いた周りに皆思いのままに描きたくり、気が済んだ者から散っていく。 『一意専心』と。母仕込みの字で大きく、大きく書ききった。最後の文字のハネを、力強く跳ねて締める。
「煉獄、お前なぁ。真面目かよ」
級友の一人が呆れたように笑う。明らかな嘲笑や侮蔑ではない。自分を好意的に捉えてくれていると分かっている。
しかし、たまに――極たまにだ。普通の男子高生はお前のような言動はしないと言外に告げられるような、揶揄いを含んだ雰囲気になることがある。
「そうだろうか」
そんな時は、いつも気付かない振りをしてきた。自分の性格を変えるつもりがない以上、考えても言い返しても不毛でしかない。チョークを置くと、カツッと硬質な音がした。
「ただ、好きなんだ」
この言葉を大事な時々に己に課してきた。その度に、自分の精神の中心が切ない程に引き絞られるような気がしていた。不可思議な、強迫観念のような強い想い。
「もー、そういうこと言うの止めなよ」
やんわりとした口調の嗜たしなめに友人達は肩を竦めた。入口付近に立っていたなまえが先生が呼んでいる事を告げると、いかにも面倒臭そうな声を上げながら渋々教室を出ていった。気付けば、どんな偶然か二人きり。
一時の静けさに、離れた所からお互いが顔を見合わせる。余りないシチュエーションに気恥ずかしさがふつふつと湧いて、彼女もはにかむように視線を逸らして杏寿郎の隣に立った。
「字、真っ直ぐでかっこいいね。煉獄君みたい」
自分の方は見ずに黒板の字を見上げている。赤いチョークを持って可愛らしい桜の花をいくつか書くと、迷うように手が止まった。その横顔を盗み見る。
「ありがとう」
丸みの抜け始めた輪郭のラインに心臓が鳴る。自分と同じ大人になりつつある外見は、しかし、自分とは違う『女子』のものだ。
「みょうじはいつも、そう言ってくれたな」
自分が見つめていることに、気付かれはしないだろうか。ふとした時、自分の強いと言われる視線が彼女を捉えていたことに、気付いていただろうか。高校最後の一年、なまえはクラスが一緒の友人というだけでは説明がつかない存在だった。
「煉獄君?」
話の流れが唐突だったせいか、彼女は自分の方を見た。お礼を言いたいのは、字を褒められたことじゃない。
「嬉しかったんだ。自分が少し変わっていることは、分かっていたから」
自分の性格は、普通ではない。幼少期から真っ直ぐ揺らぎなく、心の中で燃えている熱さを持て余していた。剣道だけでは冷まし切れない、この熱意を向けるものが何なのか分からずに燻らせるしかなかった。そして、高校に入って、この歪まない心を他の人が持っていないことに気付いてしまった。
「変わってるんじゃないよ」
なまえは眉をきゅっと寄せて力強く否定する。そう、否定してくれたのは、彼女だけだったのだ。
「皆同じじゃない、誰だって人とは違う。それが煉獄君らしさなんだよ」
彼女は普通の女の子だった。どちらかと言えば人当たりの優しい彼女が、違うよ、と言ってくれる時だけ語気を強める。
「私、煉獄君のそういうとこ、憧れてた」
自分だけを見て、自分にだけ力強い言葉をくれる。今、自分が無意識の内に欲しがっていた言葉を掛けてくれたように。そんな時が心地よくてたまらなかった。
「みょうじ……」
至近距離でお互いの視線が合う。その瞬間、ざわっと風が二人の間を吹き抜けた。
カーテンが揺れ、髪が靡なびいて頬に張りつく。粉受に乗せていた杏寿郎の手に、ピンクの花びらが一枚だけふわりと降りた。ただそれだけで、学校の教室という場所から二人だけが隔絶されたような、そんな錯覚に陥る。
「煉獄君、私ね……」
風が凪いだ時、乱れた髪で表情は読めなかった。躊躇いがちになまえが口を開きかける。
「おーい、煉獄! 剣道部行くぞ!」
「ああ、今行く! あと少しだけ待ってくれ!」
同じ剣道部員という第三者の声で、二人の間の浮ついた空気が消え去った。反射的に応えられた自分を褒めたい。ぼんやりしたままでいたら、この状況を冷やかされていたに違いない。
「煉獄君、元気でね」
再びなまえの方を向いた時、彼女は普段通りに戻っていた。髪は撫で付けられ、にっこりと微笑んでいる。
「ああ。……みょうじも、元気で」
彼女は言い損ね、自分は聞き損ねてしまった。もう一度聞き返す程踏み込める関係ではない。
「うん。バイバイ。またね」
ひらひらと手を振る彼女に見送られるように、杏寿郎は教室を出た。また会える、という淡い期待だけ抱いて。
去り際、チョークが黒板を叩く音が聞こえたような気がした。
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今なら分かる。約束もなしに、また会えるなんて奇跡に近い偶然だということ。その時は、理由もなく『また会えること』を何となく信じていた。
臆面もなく好きだと言える程強い感情ではなかった。でも、決して友人ではなかった。
育ち切らなかった想いは吐き出す行き場を失って、終わることもできずに心の奥底で今も眠っている。数年の時間を越えて呼び起こされ、大人になって初めて、あの感情に名前を付けることが出来る。
――あれは、確かに恋だった。
初めての感情を、彼女に抱いていた。自信がなくても、自分の気持ちを彼女に言うべきだったのだ。そうすれば、何かが変わったのかもしれない。
「……仮定の話だな」
口から零れ落ちた自分自身の声が、無味乾燥な事実を突き付ける。実際、あれ以来なまえに会うことはなかった。きっとこれからも、会うことはないのだろう。
残念ながら、現実はそんなものだ。似た状況に感傷的になってしまったが、もう夢見がちな年齢でもない。
一枚の花びらを指で摘まむ。
花弁は、優しい風に攫さらわれていった。