火照っている頬に、生ぬるい夜の風が心地よかった。繰り返していた浅い息を、深く深く吸い込むと、肺が大きく広がっていく。
静かにしていればいる程、空気の温度を感じる。冷たくはない。だが、心地よい。手足にも顔にも、全てを浚っていく感覚を残していく。
「気持ちぃー」
「……みょうじ先生、大丈夫か」
なまえが漏らした呟きに、肩を貸してくれていた杏寿郎が訝し気に覗き込んできた。初夏の暑さに、普段は降ろしている髪を後ろで縛っている。彼に似て、威勢よくぴょんぴょんと跳ねた髪が一筋、頬を掠めてくすぐったくて、笑ってしまった。
「平気でーすよぉ。煉獄先生ってば心配性!」
「いや。君、相当酔ってるだろう」
「酔ってはいますけどぉ。大丈夫なんですー」
教職員交流会という名のただのどんちゃん騒ぎでしこたま酔っぱらった後輩兼同僚が、とうとう理性を飛ばしたとでも思われたのかもしれない。でも残念。なまえの意識も記憶も、きちんと残っているのだ。
「何がだ。全く――そこ、入るぞ」
こちらの言い分はまるっと無視して一蹴した杏寿郎は、なまえを連れて道すがらの公園へを足を向けた。
▽
「ほら、飲むといい。少しは酔いを覚ませ」
ペットボトルの水を杏寿郎が差し出してくる。なまえをベンチに座らせて、動くなよと言い置いて、彼はすぐ傍の自販機で水を買ってくれていたらしい。
受け取った瞬間の冷たさに、なまえのふわふわとした気分が霧散する。結露していてもおかしくない筈のボトルはちっとも濡れておらず、僅かに緩められたキャップと共に、彼の気遣いを伝えていた。
「ありがとぅございます、煉獄先生」
「何だ、もういいのか」
先程よりも幾分しっかりしたなまえの受け答えに、杏寿郎は肩を竦めた。心なしか、残念そうにすら見えた。
「だって、言ったでしょ。大丈夫だって」
「及第点だな」
酔ってはいるけれど、大丈夫だ、と。普段よりも敬語だとか礼儀だとかが抜け落ちている部分は否めないが、醜態を晒す程ではない。水を一口飲んで、冷えた液体が喉を流れていく。なまえにとっては、普段の自分をほぼほぼ取り戻すには充分だった。
「しょうがないじゃないですか。カナエ先生飲ませ上手だし、宇髄先生だって押し強いし……」
普段は笑顔でいることの多い杏寿郎が、眉間に皺を作っている。自分が悪いことをしている気になって言い訳を連ねると、途中ではぁ、とわざとらしい位に溜息を吐かれてしまった。
「君は、もう少しは自衛というものを覚えてくれ」
「何の為に?」
自分の真向かいに立っている男を見上げる。あぁ、月が綺麗だ。精悍な人は月を背後にしていても様になるものだなぁ、などと呑気に魅入られた。
「君自身の為にだろう?」
「私、別に誰彼構わず飲まされたりしません」
ぴく、と彼の太い眉毛が動いている。はっきりとした輪郭で、彼の感情は存外分かりやすいのだと気付いたのは最近だった。どうやら機嫌は余り良くないらしい。
ベンチを照らしている街灯が、唸るような音を出している。群がった羽虫が当たり、ばちっと弾かれているようだ。聴こえてくる微かな音すらもなまえの耳は拾い、視界に入ってくるのは、ぼんやりとした蛍光色に浮かび上がったこの場所だけだった。
「分かった。俺が悪かった」
横一文字に引き結ばれた唇が薄く開くと同時に、杏寿郎はなまえの隣に座った。視線が同じ高さになり、真っ直ぐ彼はなまえを見る。穴が開きそうな位に、大きな瞳が逸らすことなくこちらを射抜いている。
「見ている俺が心配だから、俺の為に止めてくれないか」
「煉獄先生の為……」
れんごくせんせいのため。
もう一度、繰り返して口に出す。いかにも間抜けで、彼には頼りなさげに映ったのかもしれない。上向いていた眉は、今はなだらかな下降線を描いている。
「俺の家は、逆方向だ」
「えっと」
唐突に告げられた彼の事情に、言葉に詰まる。学校から近い居酒屋が会場だった今夜、たくさんの教職員の中でなまえの家にもっと近い人はいたのかもしれない。
誰か送ってけよ、と言った宇髄に即座に買って出てくれたのは彼だった。それは指導してくれる同じ教科担当の先輩だったからなのか、それとも――。
「酔っている君に言っても仕方がないな。忘れていい」
ぽん、と自分の頭に乗った大きな掌は、暖かかった。もう暑いとすら思っている近頃でも、不快なものではなかった。彼がこういう風になまえに触れたのは、初めてではなかったか。
「煉獄先生。私、酔ってるけど、言う程酔ってないです」
「だから、きっと覚えてます。忘れません」
頭上の手が乱暴になまえの髪をかき乱す。せっかく冷めかけた酔いは、脳天をぐちゃぐちゃに混ぜたようにふらふらになった。目が回る。
「そうか」
巡っていた視界がゆっくりと止まって再び彼を見た時、満面の笑みをなまえは見た。
Event:Secret party
『煉獄杏寿郎×公園(第6回)』に加筆修正