ため息

 煮えたぎる思いに、喉の奥で何かものが詰まっているようだ、と感じた。こくりと唾液を嚥下する。何も変わらない。肺の奥底からそのまま出したくてたまらず、しかし、寸でのところで思いとどまった。
 僅かに口を開き、細く、長く。誰にも気づかれないように吐き出していく。
 
「ため息くらいつけば?」
 
 後方からふいに現れた気配に、杏寿郎が振り向く。黒い隊服に無地の薄い羽織を襲ねている。黒地が透けて美しい装いは女性らしく、妙齢の彼女にはよく似合うと会う度に思う。
 
「下らんこと考えてるでしょ」
「ばれてしまったか」
「分かるよ、目がどっか行ってた」
 
 指摘をまるっと流してしまおうかという魂胆は、付き合いが長いと看破されてしまうものらしい。目を見れなかったのだ、彼女に気付かれない筈がなかった。何と返事しようか、と短い間思案する。
 
「炎柱さまはため息をつくのも気が引ける?」
「いや、そうでは――」
「うそつき」
 
 こちらからの動きは一切待たずに、彼女の方から切り込んでくる。付き合いが長いと遠慮もなくなってくるのか、今日も今日とて、彼女の舌鋒は冴えきっている。
 要職に就いて間もなく、まだ己が力んでいる自覚もある。自分の状況が彼女に筒抜けである以上、言い訳は無用。杏寿郎はだらりと肩から力を抜いた。
 
「君は、そのズケズケものを言う所は直した方がよくないか」
「安心して。煉獄にしかしてないし、煉獄も私には辛辣だよ」
「……むぅ」
 
 あながち間違いでもないことを杏寿郎はよく分かっている。煉獄家の嫡男として品行方正たれと教えられ、それに違わず生きてきた自負が、彼女の前では崩れていく。どうにも不可思議で、しかし気安い。口では勝てまい。杏寿郎はふ、っとため息をついた。
 
「ついたね」
「何?」
 
 白い羽織が翻る。指さしてきた彼女の手を、逸らすべく掴んだ。思いの外距離は近く、自分のすぐ下にある彼女の頭が微かに揺れている。ついと上げられた顔がいかにも勝ち誇った表情をしているのが癪に障った。
 
「ため息、ついた」
「笑うな」
 
 鈴のような声を響かせる彼女を相手にしていると、感情の起伏すらも馬鹿馬鹿しくなってくる。もう一度、息を吐く。大きく、深く。
 さっきは隠したかった。他の上に立つ者がするべきではないのだと。それを破ってしまったというのに、さっきよりも余程気分が良くて解き放たれている。
 
「悪いものは、出した方がいい」
 
 真面目くさった貌をして、何を言うのか。閉口していると、彼女は表情を崩して笑った。
揶揄かいは微塵も含まない、気心の知れた知己に対する親しみ。慈しみにも似たそれは、破天荒でも女性である彼女にも備わっていたのだろうか。
 彼女の笑顔に、さらけ出してしまいたくなる。
 
「君の前でしか出せない」
 
 手に、力を込める。繋がった所から人間の温度を感じて、血塗れな自分には尚のこと沁みた。二つの手を己の額に宛がうと、されるがままだった彼女の手がやおら動いて杏寿郎の前髪を撫ぜる。
 
 ――煉獄ならいいよ。
 
 柔らかな手の感触と共に、優しい声が耳元で響いた。

10/2 ... 『ため息』
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