さわりと風が一陣通り抜けた。頬を撫で、髪を揺らす。からりと乾いた空気に、季節がまた一つ巡っているのだと感じた。
「君は、何か羽織らないのか?」
漆黒の隊服だけを着るなまえとは対照的に、隣にいた杏寿郎は無地の羽織を掛けている。真っ白で上等なものは、隊内で知らない人間はいない、彼の育ちの良さを表しているような気がした。
「高いんで」
「謙遜だな! それ位の給金はもらっているだろう?」
素っ気なく答えるも、突き詰められてしまう。煉獄杏寿郎は、声の大きさに反してきちんとした男だ。礼服としての羽織を大事にしているのか、彼が普段から衣服を乱すことはない。
「……最近まで、暑かったじゃないですか」
暑かろうと寒かろうと変わらず平然としていられる彼とは違って、自分は我慢の利かない卑小な身だ。先程に負けずとも劣らない、下らない本音を零した。
「しかし、そろそろ肌寒くなってきてはいないか?」
煉獄杏寿郎のことはよく知っている――よくは知らないかもしれないが、鬼殺隊の知り合いの中では、一番マシだ。杏寿郎の目下を気に掛けるところも頼りがいがあることも、彼に死地から救われこの場所に導かれたなまえは身に沁みている。
もうこの馬鹿馬鹿しい問答から早く抜け出したい。ご大層な人とこんな話をしていると恥ずかしさしか感じない。
「隊服すごいし、大丈夫だと思います」
どうでも良くなってきて、そんな適当なことを言う。実際、不可思議なもので、この一年着続けてきた隊服はそんじょそこらの木綿なんかとは比べ物にならない。濡れにくく燃えにくい、丈夫で軽い。こんなに便利な服は他にあるまい。
「過信しすぎだ!」
この服で冬を迎えたことのない自分の、何処までもいい加減な物言いを、彼は豪快に笑い飛ばした。
▽
「――これを、君に」
煉獄邸の客間に通されたのは、秋がまた一歩近付いてきた頃だった。慣れない空間にそわそわと身動ぎしながら待っていたなまえに差し出されたのは、紙縒りが結ばれた一枚の和紙。
「煉獄さん?」
訝し気に視線だけで捉えると、杏寿郎は頷いてその先を促した。貧しい生まれの自分にとって、たとう紙で包んで保管するような立派な服にはとんと縁がない。恐る恐る、指を伸ばす。
「俺のものを仕立て直した」
届くか届かないかの寸前で、彼は教えてくれた。そっと紐を解き、包み紙を開くと真っ白な羽織が綺麗にたたまれ収まっていた。
「古着ですまないが、余り高価なものでは君は気にするだろう?」
「そう、ですね」
着古したと言っても、元が上等だ。屋号の書かれたたとう紙を使っている時点で、仕立て代だけでもそれなりに掛かっているだろう。
「煉獄さん――」
「手を出したなら、最後までするべきだ」
「はぁ」
彼は何かにつけて、掬いあげた自分にものを渡そうとする。それは施しか、哀れみか。そう邪推したくなる時もある。しかし、彼が自分を見る時に憐憫の色は浮かんでいない。
「取り敢えず、風邪を引かぬようにせねばと思ってな!」
びりり、と一際大きな声が脳天を突き抜けていった。障子が揺れた気がする。おかしくなって、笑ってしまった。
「色々ご迷惑お掛けしてすみません」
「これでも存外楽しんでいるんだ」
人を安心させるような普段通りの彼とは、少し違う。なまえにとって、彼は神とも仏とも言える存在だった。何せ、命を救われたのだから。
しかし、今目の前にいる杏寿郎は、個人的な感情を隠さず、何処となく年相応の少年っぽさすら感じられた。
「せっかくなら、礼を言われたいところだな」
「……ありがとぉございます」
素直に礼を言うのは、まだ少し恥ずかしい。顔を直視するのは畏れ多い。しかし、以前よりも自分は自然に笑えるようになったのではないか。
「うむ!」
それならば、それはきっと、彼のお陰だ。
上目がちに彼を見ていた自分の頭を、彼は、意外な位優しく撫でてくれた。
6/5 ... 『衣替え』
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