なまえは、自動販売機の前に立っていた。締切に滑り込ませるようにして提出したばかりの書類の作成で、頭を使い果たしてふらふらだ。せめて一息吐きたかった。
このフロアにあるのは、たった一台。缶やペットボトルではなく、ミル挽ひきをしてくれるタイプのもの。模型ではなく、写真や絵で表示された飲み物をじぃっと見つめる。
アメリカンもカフェオレもカプチーノも、大して違いは分からない。強いて言うならブラックかそうではないか。けれど、大差ないなら種類がたくさんある方が選ぶのは面倒臭いし、今は頭を使いたくない。
「先に構わないだろうか?」
大きな声で話しかけられ、思わず肩が竦んだ。後ろを振り向くと、明るい髪の男性が一人立っている。目立つ容姿と快活でリーダーシップ溢れる人柄で有名な彼を、なまえも一方的に知っていた。
「え、っと。あ、どうぞ。すみません」
思いの外、自分は長い間自販機の前を占領していたのかもしれない。そう気付いて、そっと脇にずれる。
「すまない。会議の合間が五分しかなくてな!」
なまえの真横に、彼はさして気にする風もなく立った。機械に小銭を入れ、迷いなくアメリカンのボタンを押す。彼の太い腕の、肘下まで捲られた白いシャツが視界いっぱいに入ってくる。
微かに浮いた血管も、滲む汗も、気のせいか彼の匂いでさえも、全て伝わってきそうな程に近い距離だった。よく知りもしない人なのに、なまえは急に気恥ずかしくなって、彼の反対側に半歩避けた。
「どうした?」
「いや、その……」
なまえと彼は、ほとんど面識がない。どうやって会話を広げればいいのかも分からない。
コーヒーの粉を挽く一際喧しい音に、二人の間の沈黙はかき消された。貴方を意識しました、なんて言えずになまえは視線を彼から自販機のちかちか光るライトに移し、わざとらしい位に凝視した。
「煉獄さん、ブラックお好きなんですね」
砂糖もミルクも入れないことを示す表示が、彼のことを教えてくれる。この自販機で指定をせずに買ったコーヒーは大概甘い。傍目にもいかにも漢らしい彼がブラックを選ぶのは、当然のことのように思えた。
「ああ。――俺は、名乗っただろうか?」
杏寿郎が驚いたように一瞬止まった。余りにも近い所にいるから、息遣いで分かってしまった。自販機を見ていたなまえでも、目力の強い彼の視線には嫌でも気付く。
コーヒーを抽出する音がする。この機械は美味しいコーヒーがウリだとかで、普通の同じタイプのものよりも時間が掛かる。たかが数十秒。けれど、とても長く感じられた時間だった。
「ここに来た時に教えて貰いましたし、煉獄さん有名なので」
「そうか。そうだな」
納得したように、彼は何度か頷く。出来上がりのランプの最後の一つが灯ると間抜けなメロディーと共に、取出し口の扉が開いた。
柔らかな白い湯気が立つカップを取ると、彼は空いた片手でもう一度お金を自販機に入れた。そして再び、彼には到底似合わなさそうなピンクの飲料のボタンを迷うことなく押している。
「いちごみるく……?」
「君、好きだろう?」
ミルで挽かない分、音は先程よりも優しい。彼の行動の意味が分からず、なまえは杏寿郎を見上げた。
程なくして出来上がった、薄くてピンクの甘ったるい――なまえの好きな飲み物を、彼はこちらにずいっと突き出してきた。
「いつも丁寧な仕事をありがとう。助かっている」
流されるまま受け取ると、彼は笑った。何が起こっているのか理解が追い付かないが、どうしてか彼は自分の好きな飲み物を知っていて、これをくれたらしい、ということだけは分かった。
「煉獄さん、あの」
「礼なら、また別の機会に」
ぽん、と肩より少し下を叩かれた。気安く触れるのではない、他人に許せるぎりぎりの場所に、彼らしさを感じた。こくりと頷くと、彼も笑みを深くして満足そうに顔を微かに傾ける。
「では、またな。――みょうじ」
あっさりと、颯爽と去っていく彼の後姿を呆然と見送る。手に持っている紙コップの熱さが、じわじわと思考を焼いている。
彼は、自分を知っていた。たくさんの人間が働くこの会社の中で、至って目立つような存在ではない、なまえのことを名前で呼んでくれた。
口を付けたいちごみるくの甘さが、五分にも満たない短い時間の出来事を反芻させる。
なまえは、羞恥で悶えそうになった。
5/22 ... 『梅雨』
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