「……私は、軍人が嫌いです」
「だから、貴方と結婚するなんて私は嫌だ」
静かな目をした女だ、と思った。
落ち着いていて、激することもなく、ただそこに在ってイザークの前に立つ。振り幅は緩くとも、時折ちらちらと覗く感情の破片が気になって今も頭から離れない。
あの時、真っ直ぐに彼女の目を見ることは適わなかった。あの砂金を纏った黒曜のような瞳は、どんな感情を映していたのだろうか。
もっとも、考えることに意味などないのかもしれないが。
▽
自分の身の回りを片付けていた時、ばさりとデスクから落ちた書類の束を拾い上げると、それはエザリアから送られていた『彼女』の資料だった。
会う前に間に合わせで貰っていたデータだけではない。プライバシーは何処へと母に聞きたくなる程詳細ななまえの個人情報の中には、二人の遺伝子の適合率もあった。嫌になる位高いその数値は統制を敷く側にすれば番つがわせようとするのも無理はないと思わせるには充分で、見た時にはイザークも目を疑った程だ。
「クソっ」
訓練に明け暮れる中でせっかく記憶の彼方に追いやっていたというのに。
再び脳裏で存在感を主張し始めたなまえに、イザークは忌々し気に吐き捨てる。手に持っていた紙の束が、ぐしゃりと真ん中から大きくひしゃげた。
「あ、イザークの婚約者?」
「違うっ!」
やや喰い気味に否定する。資料に目ざとく気付いたディアッカが、揶揄かうようにこちらを見ていた。
なまえは婚約者ではない。あくまで彼女は暫定であって、候補でしかないのだ。婚約者ではない、断じて。
そこまで考えて、彼女にとって自分は暫定ですらないのだと思い出し、余計に頭が沸きそうになる。
この苛立ちは、アスランに対するそれに非常に似ている。内容はどうあれ、決して自分の思い通りにはならないと思い知らされるところがそっくりだ。
「何だよ、気に入らなかった訳?」
「そういうんじゃない。そもそも、個人の感情で決めれることじゃないだろう」
自分となまえならほぼ確実に子どもが見込める――それが、今のプラントにとってどれ程重要なことか。
イザークにとっても家を次へ繋ぐということは絶対的優先事項の一つであり、向こうから拒まれたといって、易々と破談を受け入れることができない理由に足り得る。
「ま、それもそうか」
その辺りは同期全員、事情は暗黙の了解だろう。
既に決まっているアスラン、渦中の自分は言うまでもない。まだ相手が決まっていないだけで、ディアッカも、ラスティやニコルだっていつか向き合う羽目になる。これは親に評議員を持つような、概して優秀と言われる第二世代全員が逃れることのできない軛くびきなのだ。
ディアッカは肩を竦めて無味乾燥な自分達の未来に同意を示すと、後ろからイザークの持っていた写真を覗き込んだ。
「へー、可愛い子じゃんか」
ひゅっとイザークの手から写真を取り上げたディアッカが、なまえの姿を興味深そうに見て感想を呟いた。全く油断も隙もあったものではない。
「そうか? ……普通だろ」
「いや、ラクス・クライン基準にしてるなら、それおかしいからな?」
顔を顰めつつ取り返し、別の資料の下に紛れ込ませる。
ラクス・クラインが類稀な美少女であることは事実だし、減るものでもないが、何かと気に障る。他の同期達に面白おかしく吹き込まれても不愉快だ。
「んで? 気に入ったのに何でそんなに機嫌悪いんだよ」
「はァ?」
「決まってもないのに、もう自分のモノみたいな言い方しといて何を今更」
ディアッカの指摘は至極もっともで、的を得ていた。
婚約者どころか恋人ですらない。遺伝子上のお墨付きを貰っただけの、知り合い未満の存在であると分かっていた筈だ。それを、さも近しい身内のように謙遜していた自分に、言われて初めて気が付いた。
「…………」
興味がなければ何処までも無関心になれるものを、彼女はそうではない。この苛立ちも不愉快さも全て、自分が彼女を好意的に見て気に掛けているせいだと認めない訳にいかなかった。多分、他でもない彼女に否定されたことが、自分はショックだったのだ。
なまえのえもいわれぬ薫りが、木蓮マグノリアの芳香と共にイザークの記憶に刻み込まれている。不快でなく、強くもなく、彼女と共にいるとその存在を五感で感じて何故か心地良かった。
こういった思春期特有のあれこれに対して斜に構えた自分の感情を、たった一度で揺らす程に。
「…………れた」
思い出すと、その時の感情と共に突き付けられた現実が同時にイザークを打ちのめしてくる。
直視するには痛い。経験はないが、これではまるで失恋だ。知らぬ間に視界に床が入っていて、答えたと思った返事はやけに小さかった。
「は?」
「だから! 断られたと言ったんだ!!」
聴こえなかったのか、呑気に聞き返してきたディアッカに半ば自棄で言い返す。
先程とは打って変わって無駄に大きい声に一瞬虚ろな目付きをした友人は、その意味を解した途端に喰い付いてきた。
「……マジ?」
「嘘言ってどうする。殴られたいのか、貴様は!?」
この悪友やラスティならともかく、自分は人を揶揄かう為に下らない虚言を吐く性質ではない。そこは同室の好、よく分かっている。大人しく黙って聞く姿勢を取ったディアッカに、イザークはふんと鼻を鳴らした。
「あれは、こっちから断れと言ってきたのと同じだ」
「何て言われたの」
核心を突く質問に、ぐっと喉の奥が詰まる。迂闊なことを言った自分を呪うも手遅れだ。
「……言いたくない」
躱かわすのは無駄だと悟ったイザークは、馬鹿正直な位に『言いたくない現状』を白状した。
間違いなく何かあった。しかし、なまえとのあれこれを、誰かに軽率に話せる程どうでもいいとは思っていない。おまけに、自分で自分の感情を理解しきれていない部分すらある。
「あー。何て言うか、その。……ご愁傷様?」
そんな複雑そうでいて単純な自分の心境を、やはりそれなりに頭の出来のいいディアッカは皆まで言わずとも察したらしい。予想外の反応だったのだろう。戸惑ったような短い間の後、茶化すような物言いをした。
「ディアッカ、貴様ァ!」
「俺は何も悪くないだろ!? イザーク、メッセージ入ってる!!」
元々の短気が顔を出し、掴みかかろうとしたところでディアッカが待ったをかけた。ベッドに放り出されたモバイルがちかちかと光っている。チッと盛大に舌を打ち、自分の端末を手に取った。開けるまでもなく、ホーム画面の通知に短い文章が表示されていた。
「~~~~っ」
この週末にみょうじ家へ訪問を。
母の思惑も自分の意思も関係ない、非常に事務的な連絡だった。母は本気だ。
「うわ。エザリア様、容赦ないのな」
本気で、自分となまえを婚約させようとしている。これは、ジュール家の家長としての決定の通知だった。
拒否する隙を一分も与えない慈悲のなさは、ちゃっかり盗み見ているディアッカの声音にさえも同情が混じっている。
「ディアッカぁ……」
モバイルを握りしめると、樹脂のボディがみしっと微かな音を立てて軋む。
ぶるぶると震えるイザークに、ディアッカはわざとらしい言い訳を並べて逃げていった。