Date.2 (1)

「なまえは、難しいと思うよ」
 
 柔和に微笑み、なまえの父はそう言った。それどころか、遠回しに他の者を薦められた。彼女の頑なさは確かに手強そうではあったが、果たして親がそんなことを言うものだろうか。彼の言い方は初対面の時のなまえと同じ、イザークを拒絶する響きを帯びていた。
 
 自分で決める。それにはまだ彼女を知らなさ過ぎる。
 
 真正面からそう告げたイザークに、彼は目を微かに見開いていた。自分にしてみれば、そんなにおかしなことを言ったつもりはなかったのに。
 
 アプリリウスに向かうシャトルの中で、真っ黒な空で無数に瞬く光に目を向ける。
 行ってらっしゃい、なまえをよろしくね。彼女の居場所を教え、穏やかにイザークを送り出したミハイルの笑顔は、既に近寄りがたいものではなく、素の表情を見せていた。
 
 それが、イザークにはむず痒く、何処か誇らしかった。
 
 
 

 
 アプリリウスの小高い丘の上にある慰霊墓地は、元々はただ広いばかりでぽつりぽつりと碑があるだけの公園のような場所だ。今は、おびただしい程に真新しい石の塚が所狭しと並んでいる。先の二月以降、この場所はプラント全民にとっての悲しみの象徴になってしまった。
 しかし、ここにはただ標が並ぶばかりで、下には何もないのだ。コロニーが核で撃たれなどしては、遺体を回収できる筈がない。死んだ証すらもない。それを思えばナチュラルがどれ程憎たらしいことか。
 
 悲哀と空虚の混じった重苦しい現実とは裏腹に、この場所は風が抜けて空気はひどく澄んでいる。まだ綺麗な墓石の奥に、年期の経ったくすんだものがある。そこに、なまえが立っていた。
 
「父さんに聞いたんですか」
「ああ」
 
 こんな奥まった所にいる人間は他にはいない。イザークがなまえを見つけるのは容易く、彼女にとっても、容姿が特徴的な自分にすぐに気が付いたのだろう。やや固い表情が、彼女が快く思っていない様を伺わせた。
 
「手向けてもいいか?」
「……ありがとうございます」
 
 口元が歪んでいる。少なくとも、礼を言う人間がするような顔ではない。
 戸惑いの方が色濃いなまえを尻目に、イザークは持っていた白百合の花束を綺麗に磨かれた墓に置いた。包装紙が擦れる音が無言の二人の間では殊更によく聴こえる気がした。
 
 エリザベス・みょうじの名前と、没年が刻まれた碑。
 まだ、死んでから三年も経っていない。それ位の時期に、何か有名な戦役があっただろうか。黙祷を捧げて伏せていた目を開けた時、風が吹いた。
 
 振り向くと、一歩後ろになまえがいる。意図を探るようにじぃっと自分を見つめている深い瞳は濃い暗色。靡く髪もよく似ていて、その色が艶を際立たせている。つい先程会った彼女の父親と、同じ色だ。
 
「仲が良い家族だったんだな」
「え?」
 
 唐突に話しかけられ、なまえは聞き返してきた。急に何を言っているのかと言わんばかりに訝しげな様子を隠さない。それが少しおかしくて、イザークはふっと笑ってしまった。
 
「ミハイルと同じだろう、その髪と目。何故母親と違うんだ」
「何で、って」
「大抵の人間は、見栄えのする方を選ぶ」
 
 多分、本当に彼女は分からないのだ。イザークが何を言おうとしているのか。明確な理由を説明できないでいたなまえに、イザークは言い放った。彼女の目が揺れ、一度瞬く。
 写真でだけ見た彼女の母親は、美しい金髪と紫の瞳をしていた。一般的な感覚でより美しい方を選ぶなら、そちらを遺そうとした筈ではないのか。
 
「いくらでも変えれるのに母親がミハイルの色を残すことを選んだなら、それは想いの強さじゃないのか?」
 
 コーディネイターとして遺伝子操作を受けるなら、容貌は優先的に選ばれる項目の一つだ。ありふれた色は遺伝子を触らずにより優性の色素の濃い方が出た結果であり、敢えて残されたのだとイザークは考える。どのようにでも変えることができる今、どちらであっても何らかの意味が、きっとある。
 
「…………」
 
 一度開きかけた口を、なまえは閉じた。固く横に引き結ばれた唇に、皺が刻まれている。俯き加減な視線は、自分を通り越して、きっと彼女の母を見ている。
 表情は固く、会話を拒まれている。しかし、笑顔で滔々と話されるよりも遥かに彼女自身を投影していた。
 
 彼女の中にある何らかの葛藤を、イザークは知りたい。けれど、同時に、今の自分が踏み込める領域ではないことも分かっていた。
 もう一度、エリザベスの墓を見る。手入れの行き届いた墓には、少し傷があった。
 
「俺は、父親のことをよく知らない。母上のことも、多分お前の家とは違う接し方をしているだろう」
 
 ジュール家で家長といえばエザリアのことを指す。何処までも空虚な、いるかいないかも分からないような存在。家族はと問われれば、母であるとしか答えようがない。
 普通ではないと理解はしている。深く考えようと思ったこともない。母に対してすら、公的な面と家内での面の厳しい使い分けを当たり前のように受け入れてきた。
 
「想い合っているいる家族というのは――少し、羨ましい」
 
 愛されていないなどとは思っていない。かけうる時間の全てを、母は自分に注いでくれたのだから。
 しかし、研究と評議会を通じてプラントの為に尽くす母は忙しく、取れる時間は圧倒的に少なかった。ジュール家にとって、イザークに嫁探しだのを押しつけてくる話すら貴重なコミュニケーションの一環だったのだ。
 少なかったからこそ、母の愛が一緒にいる時間に集中し、やや歪んで過剰になってしまったことは否めない。
 
「勘違いするなよ。俺は俺なりに母上のことを大切に思ってるんだからな」
「うん」
 
 独白に近かったイザークの吐き出しの最後、彼女に水を向ける。返事があると思っていなかったイザークは、ふとなまえの顔を見てしまった。もう、拒絶の色はなかった。
 
「うん。ありがとう、イザーク」
「俺は別に何も……」
 
 先程までこそが間違いだったかのように、薄らと笑顔まで浮かべている。よそ行きの顔ではない。自身の感情を隠すことを、彼女が止めた瞬間だった。
 淡く紅色に染まった眦がいじらしい。潤んだ目は、悲しみではない。喜びとも少し違う。溢れ出した感情がいかに大きいのか、それだけが伝わってくる。
 思わずなまえに手を伸ばす。目尻に触れると、指先がつぅっと濡れる感触がした。
 
「父さんと、母さんが……愛し合ってたことを認めてくれて、ありがとう」
 
 途切れ途切れに紡がれた言葉は、彼女にとってどれだけ重要だったのだろう。背景を何一つ知らないイザークにとってさえ、意味もなく突き動かされてしまう程に強い想い。
 喉の奥がぐっと詰まり、何も言えなくなる。例え口が動いたとして、自分が何を言えたというのか。
 
 言葉にできない想いの代わりに、イザークはなまえをただ強く抱きしめるしかなかった。