幾らか高い位置から、父が自分を見下ろしている。まじまじと興味深そうに、観察されているのは主に顔だ。
居心地の悪さと共にもぞりと身動ぎすると、なまえは父を見上げ返した。
「……なに、父さん」
「いつもより気合が入ってるね」
簡潔に、しかし的確に父に指摘され、なまえは口を分かりやすい位への字に結んだ。
まだ学生の身分であるなまえは、普段は薄付きのリップに軽くパウダーを叩く程度だ。今日は滅多に使わないメイク道具を使って、きちんと整えてきている。それでも、高級ホテルのロビーでは、自分は場違いで浮いているように思えてならなかった。
「顔がいつもと違――った!」
余計なことを。キッと睨みつけながら、遠慮なしに父の脛を蹴り上げる。男にこの気持ちが分かってたまるものか。
「あんな綺麗な人に会うのに素顔スッピンなんて、絶対嫌」
ぷいっと顔を逸らす。写真一枚でしか見たことのないイザークは、正に白皙の美少年と言って差し障りのない美貌だった。女として横に立ちたくないし、許されるなら今だって逃げ出してしまいたい。
「なまえは自己評価が低いよね……」
こういう形で異性と出会うことも、それが自分の手には余るような相手であることも、なまえには経験がない。
視界には今日自分が選んで履いてきたミドルヒールのパンプスが入ってくる。高いピンヒールを履ける程洗練された大人の女性ではない、しかし精いっぱい背伸びした、これが今のなまえらしい。
「みょうじ様」
前屈みに脚を擦っている父が呼ばれる。凛とした、揺るがない声。
そちらを振り向けばエザリア・ジュールが微笑んで立っていて、なまえは呆然と彼女に見入ってしまった。テレビで見ているよりも、ずっと美しい人だった。
「初めまして、エザリア様。お見苦しいところを失礼しました」
父はそれを受けて立ち上がる。父もまた、笑んでいた。普段の物腰柔らかな人とは違い、隙がない。
脚を撫でていた情けない父は何処へ行ったのか、評議員の前で委縮することもなく堂々としている。
「可愛らしいお嬢さまだわ。お会いできて嬉しく思います」
「なまえ・みょうじです、エザリア様」
惚けて立ち上がり損ねたなまえに合わせるように、エザリアは腰をやや屈めて視線を合わせてくれていた。
同じ高さの薄水色の瞳が、なまえを見つめている。なまえの知らない一面を見せたように、エザリアもまた、報道で知る彼女とは違っていた。
「初めまして」
彼女は今、評議員ではなく母としてここにいるのだ。そう気付くと、緊張感が少しだけ緩んだ。
立ち上がり、一度礼カーテシーをする。斜め後ろに引いた片足をブレさせず、もう片方の膝を軽く曲げ、伸びた背筋で一呼吸。ゆっくり顔を上げてエザリアの顔を真正面から見据えると、彼女は嬉しそうに破顔した。
「あの、イザーク様は」
今日一番の目的であるだろう人物が、ここにはいない。
ロビーには、プラチナブロンドの人は他にいなかった。いれば、エザリアと同じように彼も大層目立つだろう。伺うように尋ねると、彼女は呆れたように頬に手を当てながら答えてくれた。
「反抗期なのか、色々複雑なようで。無礼をしたらごめんなさいね」
エザリアの向く先、ホテルのガラスの外側に、光を受けて白銀を煌かせる少年が立っていた。不本意そうな様子を隠すこともなく、綺麗な眉間にしわが寄っている。
「いいえ、お察しします」
華麗なる経歴はどれ程彼が才能に溢れているのかよく表していた。きっと、遺伝子の恩恵だけでなく本人の努力も相当なものだろう。
こんな平凡な何の取り柄もなさそうな自分を宛てがわれるのは、不満に思って当然だ。
「あら、どうしてかしら」
「え?」
自分にとっては単純な帰結を聞き返されるとは思ってもおらず、なまえはエザリアの顔を直視してしまった。
「どうしてあの子、機嫌が悪いのかしらね?」
イザークからなまえへ。移ってきた視線が、自分の奥深くまで暴くようだ。同じ微笑みだというのに、つい先程までのものとは種類が違う。
こくり、となまえは唾を飲み込む。
「エザリア様は、我が家のことを……ご存知なんですか?」
不自然な位に途切れながらなまえが何とか紡いだ言葉に、エザリアはただ、笑みを深くしただけで答えない。
喉が渇いて粘膜が擦れる痛みすら感じた。みょうじ家は、庶民だ。しかし、隠さずとも口にしないことがある。
「イザーク様は、」
「お母上が殉職されたことは聞いています。素晴らしい方だったのでしょうね」
知っているんですか、と最後まで問いかけることはできなかった。
その答えを聞く機会も失われてしまった。亡くなった母のことを持ち出され、なまえの顔色が変わる。
「……エザリア様」
「なまえ」
話題に出ない筈がなくとも、聞かれたくはなかった。自分でも、何を言おうとしたのか分からない。エザリアの名前を呼んだなまえの肩を、父が強く掴んだ。
「彼も忙しいだろう。早く済ませておいで」
心臓の音が、自分の耳に反響して聞こえている。心が無防備な状態で聞かれれば動揺もする。ふぅ、と長めの息を吐くだけで、気分は少しマシになった。
「……はい、父さん」
済ませる、という言葉にエザリアの眉が僅かばかり動いたのが見て取れたものの、知らぬ振りをする。
彼女が自分達の何を知っているのか、或いは知らないかは分からない。しかし、なまえはジュール家と縁続きになるつもりは全くなかった。
――いや、向こうの方から願い下げだろう。