おやすみなさいを告げた夜

「メリークリスマース!」
 
 ドアが開いた瞬間に、今日の決まり文句を告げる。一歩入ればすぐに閉まるドアに、顔を上げたイザークは心底呆れた表情でこちらを見てきた。
 
「気の抜けたヤツだな……仕事増やすぞ、貴様」
 
 規定の作業服からラフな格好に着替えているなまえとは違って、イザークはまだ白服のままだ。宙域勤務とはいえ戦時中でもない今、季節のイベントで浮かれ立った艦内の空気は隠せない。その辺りを察して今日は殆どの部署に定刻での勤務上がりと差入れを指示したイザークは隊長として有能だったが、彼自身がまだ働いているのはどういうことか。
 
「私、一応真面目に働いてから上がってきたんだけど」
 
 机に残っている書類を崩さないようにどかしながら、なまえは小ぶりなシャンパンの瓶をイザークの目の前にどんと置いた。隊長からの指示そのままを差し出すのもつまらないが、他に目ぼしい代わりも思い付かなかったのだから仕方がない。シャンパンは彼の厳命によりノンアルコールを仕入れている。
 
「まぁまぁ、せっかくだから休憩しようよ」
 
 隊長の仕事など、終わることはないのだろう。イザークは完璧主義だからこそ人一倍多くの仕事を抱えているし、部下に配慮して仕事を減らせば、その分は彼に跳ね返る。この仕事人間もたまには緊張を解くべきなのだ。デスクに腰掛けると、普段は見上げる彼と視線の高さが同じになった。
 書類の積み上げられたデスクに渋面の隊長と、煌びやかな流線形の瓶に無作法な部下。眉間の皺を益々深くして暫し笑顔のなまえと見合ったイザークは、大袈裟な位に溜息を一度吐いて脱力した身体を椅子に預けた。許可が下りたと判断し、ボトルの栓を開けると軽やかな空気の抜ける音がする。
 
「ディアッカは」
「野暮なこと言わないでよ、クリスマスなんだよ?」
 
 遠回しに地球の想い人の存在を匂わせれば、イザークも漸く思い至ったのか、珍しい位に間の抜けた表情を見せた。彼の一瞬浮いた背中がまた沈み込み、ずるずると落ちていく。
 
「ああ、そうか。そういうもんか」
 
 二年――共に過ごして、実際には二年半以上になる。長いのか短いのか分からぬまま、クリスマスを迎えるのはもう三度目。まだ鼻持ちならない青臭さを持った、何も分かっていなかった頃から自分達は一緒だった。一人また一人と減っていき、この艦ボルテールにいるのは最早三人だけだ。その内のディアッカも、このクリスマスは共有しない。
 約束もしていない恒例行事にディアッカもいるものだと当たり前のように思い込んで、そうではなかったことをイザークは思い知ったのだろう。不変なものなどないのだと、身につまされる。
 
「そりゃそうでしょ。ねぇグラスないの?」
「ある訳ないだろうが。適当に紙コップにでも入れとけ」
 
 気分を変えようと濃い緑色の瓶を掲げる。イザークはふんと鼻を鳴らしてこちらを一瞥しただけで、明後日の方を向いたままだった。
 
「えー雰囲気出ない……」
 
 変わらないものなどなくて、ディアッカも、彼自身だって変わっているのに。隊長となって劇的に変化せざるを得ない今、イザークはきっと他よりも『変わらないもの』に囚われている。だからこそ、なまえは今までと変わりないように見せかけ続けるのだ。
 勝手知ったるイザークの自室で予備の紙コップをチェストから引っ張り出し、普段はコーヒーを飲む時に使う無地のありきたりなそれに淡い黄金色の液体を注ぐ。しゅわしゅわと気泡が弾ける音が二人しかいない部屋で殊更よく聞こえた。せめて透明なプラスチックのコップだったら色はよく映えただろうに、奮発したのに惜しいことをしてしまった。
 
「軍艦で雰囲気も何もあるか。必要なら自分で持ち込めばいいだろう」
「いいの?」
 
 不服そうななまえの表情に気が付いたのか、妥協案が示される。俺はいらん、と付け加える辺りは生真面目な彼らしい。様々な制限が課される宙域での軍艦で、余暇を楽しむ個人の嗜好の為の、場所を取る上保管に気を遣うような代物は本来必要ない。持参許可だけでもイザークはかなり譲歩している。
 
「酒は駄目だがな」
「けち」
「誰がけちだ」
 
 しっかり釘を刺され、条件反射で返す。何も考えずにぽんぽんと応酬する下らないやり取りは、気の置けない間柄だからこそ成立する。顔を見合わせてお互いがふっと表情を緩め、なまえは吹き出してしまった。イザークも眉間の縦皺を消して、先程よりは雰囲気が和らいでいる。漏れる笑い声を噛み殺しながらイザークに紙コップを渡すと、彼は口元に運んだきりぴたりと止まった。
 
「……いくらだ?」
 
 ふわりと漂う桃とアプリコットのフルーティーな香り。くすみのないシャンパンの色。飲めば引き締まるような辛口と薫りが口の中に広がるだろう。育ちの良さは伊達ではなく、ランクの高いものだと瞬時に気付いて懸念を示したイザークになまえは舌を巻く。
 
「他のと一緒に入れたのは確かだけど、これは自前」
 
 ケーキとシャンパンを仕入れるようになまえに指示が飛んだのは十二月が差し迫った先月の末だった。今年隊長に就任して初めてのクリスマスだというのに部下への配慮を見せたイザークに感心しつつ、その注文に便乗する形でなまえは私的なものを一つだけ追加したのだ。調達管理専門のなまえとはいえ私物一つの為だけに注文と輸送を依頼することはできないし、何よりこの品質のシャンパンを乗員数分買えばジュール隊の福利厚生予算が軽く吹っ飛ぶ。
 
「酒でもない、ノンアルコールごときにそこまで出すこともなかっただろうが」
 
 飲めば逸品だと分かる。それなりの品には相応に値が張るし、実際結構なお値段だった。自分でもかなり奢ったと反省しないこともない。
 紙コップを回すように揺らすと、ワインの香りが立ち上る。すうっとそれを吸い込めば、肺の奥まで満たされていく感覚に、気分だけでも酔える気がした。
 
「たまにはね。ゆっくりできればいいなと思ったんだ」
 
 ただ、折角二人で分け合うなら安い酒もどきでは勿体ないと思った。今これを口に含んだイザークが顔を思わず綻ばせたようなその表情を、見たかっただけ。
 
「貴様がか?」
「私はいつも適当にやってるよ」
 
 なまえは元々、常に緊張感を張り詰めるような人間ではない。何の気もなしに口を開いていると、いらないことまで喋ってしまっていけない。伝えるつもりがなくても、直接言うことがなかったとしても、零れ落ちた台詞一つできっとイザークは分かってしまう。はっと気付いて彼を振り向くと、彼は既に真顔でなまえを見ていた。
 
「……余計な気を」
 
 たったそれだけの短い言葉。侮られたり弱さを見せることを嫌う彼にとって、労わりすらも受け入れがたい場合だってあるだろう。イザークは一口だけシャンパンを飲むと、美味いな、と呟いた。
 
「貴様のその、間抜けな面を見ている方が幾らかマシだ。……不本意だがな!」
 
 彼の中で自分は許されているということを、なまえは自覚している。付け加えられた照れ隠しなんて意味がない位になまえは彼のことを分かっていると、思い上がっていたい。
 
「だから、たまには顔を出せ」
 
 彼の場合、昔馴染みと言い合っている時の方が独りでいるよりも緩めるのだろう。まだ、緩急を自分でつけられる程にはその立場に慣れていない。色々な想いを背負って、覚悟を持って白服を着ることを選んだ彼だからこそ、馴染むまでには時間が掛かる。
 
「りょーかい、隊長。たまにはゆっくりしに来ます」
 
 へらりと笑って答える。誰がゆっくりするのかには言及しない。彼の為なのか、或いは自分の為なのか。イザーク以上に表に出さずにはぐらかし続けているだけで、二人の時間が心地良いと思っているのはなまえだって一緒だ。口にしない想いと一緒に、残っていたシャンパンを一気に飲み干した。
 
「そろそろ行こっかな」
 
 柔くなり始めた紙コップをぐしゃりと握りつぶし、ゴミ箱へ放り投げる。綺麗な放物線を描き目標地点へ落ちていったのを確認すると、自然と口角は上を向いた。
 
「何だ、もう行くのか」
「どうせまだするんでしょ、あんまり邪魔したら悪いから」
 
 視線の端に書類の山を捉えて、なまえは苦笑した。休憩はあくまでも休憩で、イザークは自分がいなくなれば続きをするに決まっている。それを分かっていて長居は無用だ。手を付いて、腰掛けていたデスクから滑り降りる。
 
「あんまり夜更かしするんじゃないぞ」
 
 床に立つと、彼のすぐ傍で、少しだけ見上げるいつもの形になった。親が子供に言い聞かせるような物言いに、口を尖らせる。
 
「何それ、私子どもじゃ――」
 
 軽く掴まれた上腕に顔を上げると、影が落ちてくる。そっと左の頬に触れた体温と、微かに彼の唇から漏れた濡れた音が耳腔に響いて余韻を残した。
 
 
「メリークリスマス、なまえ」
 
 
 ほんの一瞬の出来事だった。すぐに離れた温もりに、同時に何をされたかを認識する。視界いっぱいに彼の銀色と慈しみにも似た穏やかな表情が広がって、それが現実だとなまえに突きつけていた。
 
「んなっ、な……っ!」
 
 唇が落とされた訳ではない。頬がくっついただけの、体温を分かち合うような別れの挨拶のキス。
 顔に熱が集まってくる。熱い。赤くなっていなければと思うけれど、これは無理かもしれない。心臓が今までにない位うるさく打って、自分の耳から聞こえてきそうだ。
 
「……ただの挨拶にそこまで反応するな。こっちが照れる!」
 
 最初平然としていた筈のイザークさえ、なまえに釣られて思わず気色ばんでいる。二人とも頬を紅潮させる中、なまえはなまえでキスされた頬を抑えながら叫んだ。
 
「私しないんだからしょうがないでしょ!?」
「俺だって母上位にしかせんわ!」
 
 両親が東洋出身のなまえにとって、挨拶でキスをする習慣はない。反面、イザーク――延いては母のエザリアがどういった習慣を持っているかなんてことも、知りようがなかったのだ。それなのに、滅多にしないと暴露されれば、ますます目が回りそうになった。
 
「~~~~っ」
 
 家族と同じ位に親しい。それはもう、同期ですらないのではないか。深く考えてはいけないような気がしてきたなまえには、揶揄かうことも怒ることもできず、何と言えばいいのかもう分からない。
 
「メリークリスマス、イザーク! おやすみ!!」
 
 取り敢えず逃げる。唯一思いついた方法を即座に実行したなまえは、閉まった扉の向こうで押し殺したイザークの笑い声を聞いた。

2021 Xmas
※ チークキス ... 頬同士をつけて挨拶すること。キスではない。