透かしの入った高そうな皿には、クッキー生地のシュークリームが一つだけ載っていた。粉砂糖を纏い、添えられたミントはアクセントだろうか。真っ白なキャンバスはルビーレッドが鮮やかなベリーのソースでデコレーションされている。なまえが選んだメニューで一番安い筈のスイーツは、そこらのコンビニで買うようなものとは佇まいからして違っていた。
「…………」
白磁の両脇に置かれたカトラリーが、手づかみなどとんでもないと言っている。ここは自分が普段から行っている気軽なカフェではなく、言わばサロンだ。サロン・ド・テ。格式高い、優雅な、置いてある家具からして何か違う、そんな場所。
「なまえ」
「えっ」
隣に座っていたイザークに声を掛けられ、なまえは顔を上げた。小さめのローテーブルにふかふかのソファー席は、馴染みのあるカジュアルな店よりもどうしたって彼との距離が近くなる。皿を凝視していた自分に気遣わしげな視線を向けていたイザークと視線が合えば、緊張でどきりと胸が鳴った。
心臓に悪い。彼は綺麗過ぎる。なまえが彼の美貌を目にするのはまだ数える程で、ましてやこの距離感は初めてなのだから。
「どうかしたのか?」
ソーサーを自然と手に持ち、ハンドルをつまんでカップを持つ彼はマナーの本に載っていそうな程に完璧だ。座っていても真っ直ぐに伸びた背筋と、カップから一口紅茶を飲む仕草は何処までも優雅で、彼の育ちの良さを嫌でも感じさせる。それに引き換え、自分ときたら。
「美味しそうですね」
笑顔を作り、気を取り直してフォークを手に取った。つん、と先っぽでシュー皮をつつくと、合間から見える中のカスタードがふるりと揺れる。とても美味しそうだ。だが、しかし。十五分前にした自分の選択を、なまえは心底後悔している。
「……なまえ?」
「はい……」
先程よりも明確な意思を感じるワントーン強い声に、なまえは恐縮してしまう。あぁ、ばれた。思わず縮こまった自分とシュークリームを交互に見て、イザークは顔を背けた。
「ひどい。笑わなくてもいいじゃないですか」
自分とは反対の方を向いて、肩を震わせている。隠そうとしても、彼の切り揃えられた髪が乱れているのだから意味がない。そりゃあ滑稽だろうとも。
自分で注文しておいて、なまえはシュークリームの食べ方が分からない。正確に言うと、この店に相応しい綺麗な食べ方を知らないのだ。自分の目の前に運ばれてきて初めて、隣の作法の手本のような男性の横で手づかみで食べることがどれだけ恥ずかしいのか気が付いたなんて、何処まで情けないんだろう。
「、悪かった。っ……」
「イザーク様!」
何とか落ち着かせて向き直った筈が結局またぶり返し、彼のつむじが揺れているのがよく見える。咎める声音で名前を呼べば、イザークは自分の失態を隠すように拳を口元に当てたままで顔を上げた。
「様はいらないと言った」
敬称は付けないでくれ、と最初に彼は要望した。なまえとイザークが二人で外出するのは今日が初めてで、その希望を叶えるのは自分にとって相当ハードルが高い。
別世界の住人の彼がどうして自分を誘ったのか、今もよく分からない。ただ、自分の何かが彼の心に響いて、気に入ってくれたのだというのは分かった。彼はきちんと伝える努力をしてくれたのだから、なまえもきちんと応えなくてはならないと思う。
「……イザーク」
気を抜けばすぐに『イザーク様』と呼んでしまう不慣れな距離感と、憧れた人と一緒にいる不思議な高揚感が自分の中でぐちゃぐちゃに混ざっている。この人は美しく優秀で、真っ直ぐ自分自身を見つめる高潔な強さに憧れていた。
しかし、彼が弱っている瞬間を見てしまったから、なまえの憧れはもっと深く異質なものに変わってしまった。彼にとっても『その瞬間に立ち会った』ことが大事だったのだろう。人の縁はタイミングが肝心だとはよく言ったものだ。粉砂糖がついたフォークを口元に運ぶ。小さく舌を出して嘗めると、純粋な甘さだけが口の中で溶けていった。
「イザーク? あの」
とりとめのない思考にかまけている内に、いつの間にか目の前の洋菓子が変わっていることになまえは気が付いた。シュークリームはイザークの前へ。彼が頼んだ筈のチョコレートケーキは、なまえの前に収まっている。
「オペラは嫌いだったか」
「嫌いではないですけど……」
大体の甘いものは好んで食べる。チョコレートのケーキは、シュークリームに比べれば圧倒的に食べやすそうに見えた。彼が事態を察して、涼しい顔で取り換えてくれたのは明らかだった。
「ごめんなさい。私、」
ナイフとフォークを使って上部を切り取り一口の大きさにした彼は、クリームをつけてフォークをなまえにぬっと差し出した。どうすればいいのか測りかねて視線だけでイザークを見ると、彼は促すように顎をしゃくり、やや不機嫌そうに眉を顰めている。
こちらの方が余程マナー違反なのに、彼の動き一つ一つに品があるせいか全く嫌らしくない。横柄ささえも自然と様になっているのはズル過ぎる。躊躇いがちに口を微かに開くと、更に遠慮なしにフォークを突き付けられる。
「余り気にするものじゃない。たかがティータイムだろうが」
これは逃がしてもらえそうにない。羞恥から目を閉じ、心を決めてぱくりと食いつくと、カスタードと生クリームが舌の上でとろけた。すっと引かれたフォークの、冷たくてクリームとは違った滑らかさが現状を思い出させて顔が火照ってくる。
「美味しい、です」
「なら良かった。もう一口?」
「いりませんっ」
流石にもう一度はごめんだ。即座に答えたなまえに、イザークはハッと声を出して笑った。初デートだというのに、今日は笑われてばかりだ。ふてくされながら、なまえはつやつやのチョコレートでコーティングされたオペラの一片にぶすっとフォークを突き刺して食べた。こちらもとても美味しかった。
「次はなまえが店を選べばいい。あれこれ考えずに済むなら、俺も楽だからな」
次があるのか、とか。あれこれ考えたのか、とか。そんなことが頭を過る。どう見たって女性が好みそうな内装とハズレのないケーキを出すこの店を、彼が元々知っていたとは思えない。きっと、調べるなり聞くなりして選んでくれた上に、彼はこんな失態ばかりの女とまた会う気でいてくれるのだ。それが少し気恥しく、嬉しい。
「庶民派でも大丈夫ですか?」
「人を何だと思ってる」
チェーン店だって行くぞ、と言った彼に仔細を聞けば、単価の高いお洒落なコーヒーショップが出てきて苦笑いするしかなかった。やはり、ド庶民とは感覚がズレている。
「貴女と行くなら、何処でもいい」
残っているシュークリームを丁寧な手付きで食べながら、本当に自然に、彼は言った。気を抜いて、ふと漏れた言葉の破壊力は抜群だった。
「貴方の、そういうとこですよ!?」
「……意味が分からん」
取り乱したなまえから逸らされた顔は、彼の赤くなった耳までは隠せていなかった。