いつもよりも遅くなってしまった昼休憩。空いた食堂に、逆に周りに気兼ねすることなく思い思いにお喋りに花を咲かせるのも当然のこと。
聞こえてきた軍靴の足音にふとなまえは顔を上げ、その人を見てつい眉を顰ひそめてしまった。メニューを一揃えさせた彼は迷うことなくこちらに向かってくる。かたん、とトレイを置く音が空いた食堂にやけに響いた。
お喋りが止み、しんと静まり返る。いくつもの視線が彼に集中し、直後に隣の自分に降り掛かってくる。なまえはふっと嘆息し、彼を見上げた。
「……お疲れ様です」
「ああ」
無表情なままで交差された視線は、すぐに双方共に外された。イザークは当たり前のようになまえの隣の席に着き、なまえはそれを気にすることもなく食事を続ける。反面、周囲の班員達の手も会話も完全に止まっていた。
ごめん、どうしようもない。
心の中で謝罪する。部下が自分に助けを求めているのは肌を刺すような感覚だけで分かっている。何より原因が彼の同期である自分だということも。かと言って、下手に自分が動けば余計な刺激になって、彼らにとっての被害が拡大しかねない。
「隊長! お疲れ様です!!」
一人勇者が立った。アカデミーから上がってきたばかりの新兵は、まだ初々しさを残している。なまえが叩き直した敬礼がなかなか決まっていて、これにはイザークも心を動かされたのか、氷を思わせる美貌に僅かな温かみが差す。
「休憩中だろう、敬礼はいらん」
「はっ!」
珍しくも部下の前で口角が上がっているイザークを見た。この男も人を認めることができるようになったか、と内心拍手を送る。
「俺達先に失礼します!!」
「ちょっと――」
びしっと直立に戻り見本のような角度で一度頭を下げたかと思うと、皆一斉に食器を片付け始める。部下全員が蜘蛛の子を散らすように食堂から消えていなくなるまであっという間だった。
「あーあ、行っちゃった。可哀想」
なまえが出した休憩時間はまだ大分残っている。食事を食べきれなかった者もいただろうに。ぐるりと周りを見渡して誰もいないと思うと溜息も出る。取り敢えず、後で新兵には上官の前での一人称を指導しようと現実逃避気味に考える。
「言葉に出さないと伝わりませんよ、あれじゃ」
表情の微細な変化で感情を読み取るなんて、付き合いの長い人間でないとできない芸当なのだ。まして、イザークの感情の起伏の激しさは隊内外でも有名で、特に接する機会のない部下達が勘違いするのも萎縮するのも当然と言えば当然だった。
「他にもいっぱい席空いてますけど。隊長」
実質貸し切り状態だった為に、最早食堂にいるのはイザークとなまえだけになっていた。がらんどうの食堂の中、白服の男と緑服の女が並んでいるのは酷く滑稽で、他の人間から見れば異様に映るのではないだろうか。
「俺はこの席が気に入ってるんだよ」
二人が座っているのは、隅でも上座でもなく、何の特徴もない席だ。取り澄ました表情は、その綺麗な貌かおに憎たらしい程よく似合っている。呑気な台詞と裏腹に彼の手はなかなかのスピードで動いていて、メインの魚を切っては口に運んでいた。
幾ら人目が少なくとも、同期であろうとも、イザークとなまえの立場は隊長と後方支援班の下士官でしかない。補佐としての立場を周りから認められている元赤服のディアッカと扱いを同じにできる筈もなく、この状況自体が――端的に言ってしまえば、おかしい。それが分からない男でもないのに、となまえは今日何度目かになる溜息を吐いた。
「意味分かんないし」
食べ終えてしまったなまえは頬杖をつきながら、隣の男を半眼で睨ねめつけた。ぼそりと呟いた愚痴は聞こえていないことを祈る。不貞腐れながら頬を支える腕をもう一本増やした頃、通信端末が机上で震え出し、画面を見てすぐに応答する。
「ディアッカ? どうしたの、珍しい」
『そっちにアイツ行ってないか?』
もう一人の同期は領域が違うこともあって、勤務時間中にモバイルを鳴らすことは滅多にない。仕事の話ではなかろうとタカを括ってのんびりと答えると、ディアッカは喰い気味に言葉を被せてきた。
「アイツ?」
『イザークだよ!』
「いるけど。横でごはん食べてる」
やはり仕事の話ではなかった。斜め下を伺うと、千切られて見る間に形を失くしていくパンが目に入る。それに気付いたイザークが器用に片眉だけ跳ね上げた。
『はァ!? 急いで戻るように言ってくれよ、本国との通信会議あと二十分だぞ!』
本国となら相手は評議会やザフト上層部の偉い人だろう。遅刻は厳禁、肝心の隊長が不在。ディアッカが焦るのも無理はない。
「これ位、五分で食べれる」
テーブルロールの最後の一つを手に取り、イザークはなまえ越しに答えた。様子を気にして聞き耳を立てる位なら最初からしなければいいのに。だから異常な早食いをしていたのか、と漸く合点がいく。
『そういう問題かっての。とにかく、すぐ戻れよ!』
まだリモートや資料の支度もあるのだろう。取り急ぎの要件のみを伝えて、通信は一方的に途切れた。後は無言の二人と虚しい電子音だけが響いている。
「たーいちょお?」
片時も休まず食べ続ける方が落ち着かないものだし、食事なんて会議の後で取ればいい。そもそも彼は食事に執着するような性質ではないし、軍人ならば一食抜いたとしても差し障りない。
「変な呼び方をするな。気色悪い」
間延びした呼び方に、不服そうながらも応えてくれる。なまえから見れば分かりやすい位なのに、他の人から見たら、やはりいつもの少しとっつきにくい隊長なんだろうか。おかしくなって、笑ってしまった。
「ディアッカ困らせたら駄目だよ。今も隣にいてくれること、感謝しなきゃ」
「それ位貴様なんぞに言われなくても分かっている!」
一度こうなってしまうと連鎖でもするのか、照れ隠しの怒声が飛んでくる。しかも、彼が普段なら絶対口にしないようなことを認めているのだから。クールぶった隊長は、もう何処にもいない。
「わー珍しい。後でディアッカに言っちゃおうかな」
「…………チッ」
ふざけて重ねると、思っていたような反応は返ってこない。女が舌を打つなとはよくなまえが言われるものだが、女に向かって舌を打つ男もどうだろう。揶揄かい過ぎたか、とちらりと隣の男を伺うと、彼は持っていたコーヒーカップをソーサーに置いた。
「どうせ、ディアッカとはたまに通信してるんだろうが」
一瞬何を言われたか理解が追い付かず、思わず彼の顔を怪訝な目で凝視してしまった。そう言えば、ここ最近イザークに通信を入れた覚えがない。
職務に於いて、格上も格上の上官相手に通信だけで済ませることはできない。チャンネルを持っていたとしても、規律や周囲への影響を考えればそれを使うべきではないとなまえも弁えている。私用があれば時間外に部屋に行く。あれば、であってなければ行かない。立場が変わって以来、疎遠になりがちではあった。
「あー……」
何となく分かってしまった。台詞一つに、彼の感情が凝縮されていたこと。そして、彼は食事をしに来た訳ではないのだということを。隊長相手に、配下の動きなんて筒抜けだ。
「……ほんっと、しょうがない人だなぁ」
イザークは口が裂けたって本心は言わないだろう。なまえも何も言うつもりはないし、自分達の間で言及することに意味はない。
「仕事、下さい」
「何?」
優しい微笑みで包んで、全てを許し合うような関係ではない。自然と漏れる笑い声と下がった眉が、譲歩している自分の心持の複雑さを伝えていたらいい。
「報告するようなことがあれば。お届けします」
ただ、たまには彼の行動を嬉しいと思う自分の気持ちに従っても悪くはない、そんな風に思えるようになった。彼が不似合いなことをするものだから、なまえも感化されたのかもしれない。
イザークが驚いたように自分を見ている。それはすぐに消えて、彼もまた静かに微笑った。なまえの変化を喜ぶ、彼の想いを滲ませるような穏やかさと共に。
「、……っ。イザーク?」
言葉に詰まる。余りにも、美しかった。こんな風に刹那儚く笑うような彼の一面を、なまえは知らない。多分何度どれだけ見ても飽きることがないだろう彼の顔に、その表情に魅入る。
「馬ァ鹿」
イザークがはっと声を出して笑った。まだ出会ったばかりの頃のような少年の無邪気さを残した笑顔は、先程とは全く違っているのに、どちらからも目を離せない。動けずにいたなまえの額を、イザークは人差し指でぴんと弾いた。
「先週の作戦で補給した分を、物資ごとに量と総額を一覧に。弾薬の調達先は分散してただろう、オーブでも買入れできないか調べてみろ」
つらつらと流れるように指示された内容に、なまえが目を剥く。イザークは空になった食器やカトラリーを整えて自分の身の回りを片付けている。
「え」
「今日中だ」
「ちょ、っ。それ本気のヤツで期間短過ぎ――」
更に最短コースの期限が無情に告げられる。言い募ろうとしても、全く聞く耳を持たない。イザークが立ち上がると、椅子が揺れる音がした。
「どんな報告書になるか、楽しみだな」
食事のトレーを持っていても、綺麗な顔は綺麗なままで変わらない。イザークは、上から挑むように、鼻でせせら笑うようになまえを見下ろしていた。口を開いても言葉が出てこずにぐっと空気を飲み込む羽目になり、テーブルの下で握りしめた手が震え出す。
「くっそ鬼ッ! 次は絶対他班回してやるんだから!!」
「言葉が汚いぞ、みょうじ班長」
イザークがなまえをそう呼ぶ時は、大概ろくでもない用事か揶揄かっている時に限ると経験で知っている。ちょっと甘い顔をすればすぐにこれだ。
「お前以外にこんな馬鹿げた指示をするか」
鼻で笑って堂々と宣言するようなことではない。締日でもないのに棚卸をさせる必要が何処にある。おまけに仕入先を増やせだと――なまえはぎっとイザークを睨み上げて無言で抗議した。
「お前なら、通常業務と合わせてもできるだろう?」
挑発するような言い方にムッとするものの、安定的な補給の為に新しい全く別の仕入れ先を検討していたことを、なまえは知っている。過重だと見逃されていたことも。それを此処で持ち出してくるのは上長がイザークで、相手がなまえだからに他ならない。
「……そういうの、ズルいと思う」
イザークに及ばずとも、情報処理上位の成績は伊達ではない。書類仕事ならお手のものななまえにとって、死ぬ気で根を詰めればできないこともない。このギリギリを攻めるところと、絶対的な信頼感が憎たらしい。
「お互い様だ」
すれ違いざまに肩に触れ、そのまま行ってしまう。振り向きもせず、いつもよりも早い足取りで。
「あ゛ーもー……」
そっと触れられた感触の柔らかさと、短い時間を捻り出して来た事実をまざまざと見せつけられ、なまえは天を仰ぐ。音を上げても責められはしないだろうが、これではやらない選択肢を取りようがない。今日は残業だ。あの綺麗な顔を歪めて、絶対に賞賛させてやる。
決意すると、なまえも立ち上がって食堂を後にした。