その部屋の前で、なまえは立ち尽くしていた。腕の時計は深夜前を示している。コールを押せばすぐに開けてもらえるだろうが、躊躇いなくそうするには時間が余りにも遅過ぎる。
腕を持ち上げ、ボタンまであと少しだけ。どうしよう、明日にしようか。迷いが震えとなり、指先から全身に広がっていく。俯き加減にふぅと一呼吸置いて、ドアから一歩距離を取った。
プシュッと間抜けな空気の音と共に、何もしていないのに勝手にドアが開く。床に、黒く伸びた影。
「人の部屋の前で何してる。早速と入れ」
眼光鋭くこちらを見下ろしている隊長に、なまえは口からヒッと悲鳴を漏らした。
▽
「遅い。勤務時間外だぞ」
重い足取りでなまえが隊長室に足を踏み入れ、後ろで扉が無情に閉まった途端、イザークは開口一番そう宣った。隊長の上等な椅子のスプリングが軋む音だけが部屋に聞こえている。
「通常業務と一緒にそこまでできるか」
指示された書類を小脇に抱えたまま、ぼそりとなまえが呟く。今持っている仕事を捌ききった上での追加業務、しかも上官の私的な思惑とあっては部下を残業に付き合わせる訳にもいかない。当日中に終わっただけでも良しとして欲しい。
「何か言ったか」
「いえ、何も」
冷ややかな声に即答ですっとぼける。デスク越しにブリーフケースごと渡すと、イザークは丁寧な手つきでそれを検め始めた。どういう評価が下されるのかが気になって、立ち尽くしたままで彼を伺った時、なまえは彼もまた軍服のままであることの違和感に漸く気が付く。
「悪くない。マゴつく必要なんざ無いだろうが」
定時はとうの昔。いくら多忙な隊長が残業にするにしてもこの時間までとは考えづらい上に、ここは彼の自室だ。
「……仕事ですから。遅くなりましたし」
待ってくれていた、と思い至れば諸々の文句や不平は解けていく。表情や言葉に出ないだけで、能力や仕事は正当に評価する男だ。
厄介ではあるものの、彼のこういう点は上司として理想的ではあるのだろう。まだ就任して日が浅いせいで知られていない、彼のそういった面に、他の隊員も早く気づけばいい。
「勤務時間外だ」
「何回も言う必要あります!?」
とは言え、自覚していることをちくちくと突き回されるのはやはり気分が悪い。遅くなってすみませんね、とぞんざいな受け答えをすると、彼は綺麗な形の眉毛を片方だけ器用に上げて見せた。
「敬語なんぞいらんと言っている」
「!」
遠回しからの直球に、なまえは目を瞬いた。二人とも、二の句は継がない。
イザークが椅子にもたれ掛かるとスプリングの軋む音がして、なまえの心臓は不穏に高鳴る。彼には、指摘して欲しくない部分だった。
「貴様のその、どっちつかずは何とかならんのか」
「……そのままって訳にはいかないでしょ」
アカデミーで交わるようになり、何故か同じ隊に配属され、苦難の時期を経て今がある。気安い同期だった。しかし今、彼は隊長で、自分は一士官でしかないのだ。そのことを戒め、互いと周囲の為にも一線を引くことは軍人として必要なことだとなまえは考えているし、イザークだって分かっているだろう。
ただ、切り替えを思うようにできない。特に、立場が下の自分では。どう言っても上手く立ち回れない自分の言い訳にしかならず、彼をまた、傷つけているのかもしれない。
無言のまま、握りしめた手の内側が疼く。見つめた自分の作業靴に、機体の白い塗料で汚れているのを見つけてしまった。これは落ちないな、などと現実逃避なことを考えている脳天に、鈍い痛みが走った。
「いったぁ! 何すんの、イザーク」
床を転がっている物体が自分を直撃したのは明らかで、それを投げつけるような人間なんて、今この部屋で他にはいない。
「やる。持っていけ」
脊髄反射で抗議したなまえに、イザークはどこ吹く風だった。悪びれることもない。的確に最も痛い部分に命中させるなんて、流石名パイロット、射撃一位。足元のそれを拾い上げてしげしげと見つめて観察する。
「チョコレート?」
「好きだっただろう」
予想外で斜め上の展開に、なまえは目を瞬かせた。
嫌いではない。入手できるものが限られる宙域で、一種の贅沢な嗜好品の一つだろう。ストレス過多な前線の軍人の手軽な糖分補給手段として、入手困難度の割に人気がある。
「一個しかないの?」
今なまえの手の中で遊ばれているものは、何処でも買える安物よりも一回り大きかった。メタリックカラーの包装フィルムに、リボンのように捻られたまあるい形は、そこそこ値が張る地球のチョコレートブランドだ。
「太るぞ」
「私じゃなくてさ」
両端を持って引っ張ると、解けて出てくる球体からカカオの香りがほのかに漂う。親指と人差し指で摘まんで、デスクに片手を付いて背伸びする。今度渡すのは書類ではなく、チョコレートだ。彼の閉じた口元に当たって、反動でわずかにずれる。
「あんたこそ、もうちょっと食べて。……また、痩せたね」
指先に力を込める。ぐいと押し付けると、イザークは渋々口をゆっくり開いた。白い歯と合間から舌が覗いている。彼の体温で溶け始めたチョコレートが、白い歯を染めていく。
全部口の中に入って閉じられた唇と、もごもごと動く頬に、なまえは笑ってしまった。大きいものだから、膨らんだ頬がハムスターみたいだ。口にしたらどやされそうだから、絶対に言わないけれど。
「人の口に、急にものを突っ込もうとするな」
頑として口を開かないという選択肢を彼は取れた。普段の彼なら、ふざけるなと叫んで放り投げられてもおかしくない。怒り出さなかったのは、彼も自分が多忙に追われて色々なものが疎かになっている自覚があったからかもしれない。
「はいはい」
「貴ッ様ぁ……」
「はいはーい」
赤くなってぶるぶる震えるのは彼が怒り出す寸前の兆候だ。自分や他の同期が彼を揶揄かうと、いつもこうなった。真面目で直情で、単純。ちょっとイジればすぐ怒る。
――ああ、懐かしいな。
なまえは何も変わらない自分達も残っていることに、嬉しくなった。綺麗な方の手を伸ばして、彼の頭をよしよしと撫でくり回す。さらさらの髪は、乱されてもすぐに元の通りになる。
「変わらない訳がない。特に、イザークは」
プラントと地球、コーディネイターとナチュラル。ユニウス条約後、目まぐるしく変わっていく世界。立場も変わった。艦と隊を預かったイザークは他の比ではなく、そのままではいられない。
「分かって――」
「それでもさ」
なまえの掌の下の白銀は、きっとこの先だって汚れることはないだろう。一束掬うと、こぼれ落ちていく。白い電灯の元で、光を反射して輝く。自分にとって、彼がいつも眩しい存在であるように。
「変わらないものも、あるよね」
全てを変える必要はない。彼と――自分も、周囲に呑まれずしなやかであればいい。譲れないものを守る為に強かになればいい。自分達の関係は、正にそういったものの一つなのだろう。
なまえが笑うと、イザークの髪が微かに揺れる。甘えるように、擦り寄せているように感じたのは、きっと自分の気のせいだ。
「隊長のデスクにそんなん入ってるの、皆が知ったらどう思うだろうね?」
だから、何もなかったことにした。
顔が綺麗な癖に沸点低く、感情的に怒鳴りそやすことも稀ではない隊長が。あの、ジュール隊長が、お菓子を常備している。これは誰かに教えてやったら面白いことになりそうだ。そう、そっちの方が、きっとずっと楽しい。
「やめんか、小っ恥ずかしい」
「ン、ぐっ」
「さっきの仕返しだ」
乗ってきたのか、素か。ただ、イザークは昔からの彼らしく、なまえを雑に扱った。遠慮なく口の奥まで突っ込まれたプラリネが溶けて、ナッツの香ばしさにたまらなくなった。
「すっごく美味しいねぇ、イザーク~」
口の中でとろとろになったチョコレートと、砕かれたアーモンドとヘーゼルが舌に残る。ボルテールに乗って再び宙域勤務に就いてからは、久しく食べることのなかったお高いチョコレートの味に頬が緩む。
「……馬鹿だな」
ハッと歯を見せて笑った顔は、同期のそれに近い。似ていて、少しだけ違う。優しさと甘さが滲んだ表情は、きっとディアッカだって見たことがない。綺麗な貌の威力は抜群で、なまえは不覚にもどきどきしてしまった。
「これ、よくできてる」
「ほんと!?」
残業上等で仕上げた書類は、個人的に彼に頼まれたものだ。業務として指示するには、現場はまだ回っていないのだ。分かっていて、なまえを信頼してイザークが頼んだ仕事。それはもう大変だった。中間管理職を通さず、直接隊長に検分されることは滅多にないからこそ、どんな評価を受けるのか気にはなっていた。渡した時の微妙な言い方よりも、疑いようのない賛辞になまえは身を乗り出した。
「貴様に世辞言ってどうする。……助かった」
彼は、嘘は言わない。物腰は柔らかくはないが、真っすぐで、認めたものを曲げたり貶めたりはしない。認めたものの更に上を行こうとする気質は、大人になったのかマシになったようだけれど。そんな彼に褒められて、嬉しくない訳がない。
「また、別のこと頼んでもいいか」
「納期もうちょっと緩めにしてくれる?」
「ああ」
大事な同期であり、友人であり、きっとこれからは尊敬する上官にもなっていく。どんな関係になっても、なまえが彼の傍にいることに変わりはなく、支えたい。役に立てたのなら、何より嬉しいことだと思っている。
「なら、いいよ」
これは、仕事ではなくて、個人的な業務外の出来事だ。だから、定時後に隊長の私室に入ったりもするし、気安い口答えだってする。自分達は、それでいいのだ。
笑って請け負ったなまえに、イザークも似た表情を返した。