指定されていた書類一式を揃え、なまえは自分の所属する隊の最高権力者の執務室前に立っていた。最後にブリーフケースを開いて中身を確認する。穴はない。完璧だ。
ただし、締切が大幅に遅れている。それもこれも自分の班のひよっこ共がふざけた報告書にしたせいだ。いや、それすら管理不行き届きだと言われれば返す言葉もない。我が隊のヒステリックな隊長の叱責を免れられる気がしなくて、チッと舌を打つ。
「お前さぁ、女なんだから舌打つのは止めろよ」
「ディアッカ!」
唐突に声を掛けられ、いつの間にか腐れ縁の同期が隣に陣取っていた。元々赤を着ていたディアッカの制服はくすんだ緑で、今はイザークの副官まがいとして付き従っている。
「あんたはいいわよ、下いないんだから」
ヤキン・ドゥーエ宙域戦からの生還を経た今、なまえも一番下っ端という訳にはいかない。下の覚えが悪いとか言うことを聞かないとか、そういった悩みはディアッカにはないだろう。
「四六時中のあいつのお守りが羨ましいって? 替わってくれるんなら喜んで」
直接部下を持たないディアッカに愚痴を零したものの、百倍になって返ってくる。何も言わなくとも渋りきったなまえの顔で通じたらしく、ディアッカは肩を竦めただけだった。
「ま、実際なまえは補佐向いてると思うけど」
「丁重に辞退させて頂きます」
ディアッカの言に舌を出す。頼まれたってご免だ。そもそも、赤服でもなければパイロットでもないなまえは、アカデミーは卒業したものの普段は補給がメインの後方支援だ。そんな自分が常に隊長と一緒の補佐官なんて出来るわけがない。
「うちの隊のな。あいつ受け流せる人間俺ら位でしょ」
苦笑と共に、二人が共通で思い浮かべるのは白銀の人だ。白服になって少しは落ち着くかと思いきや、繊細で気が短い面は余り変わってはいない。部下からの評判はいいものの、対等且つまともに付き合える人間は限られている。
言動は真面目一辺倒ではないのに、一緒にいた人間があの男だったせいで、ディアッカはここ一年で苦労性のお母さんのようになってしまった。
「……受け流してはない、けど」
ぽそりと本音が漏れる。受け止めたいと、願っている。濃密で短くはない関係。少し扱いが面倒で疲れるとしても、アカデミーからずっと変わらず一緒だったのは最早なまえとイザークだからこその。大切に想っていることに間違いないが、それがどういう線上の感情なのかはお互い詳つまびらかにしたことはない。
「入れば? 時間押せば押す程怖いぜ?」
呟きは、無機質な空間に溶けていく。聞こえたのか聞こえない振りをしてくれたのか、ディアッカはなまえの手元を見ながら忠告を寄越しただけだった。ごもっともだ、締切はとっくに過ぎている。
「う~~っ」
シュッと軽やかな音と共にドアが開き、ディアッカは先に入っていった。なまえを残して、即座に目前で閉まる白い扉。二人に置いていかれたような錯覚を覚え、書類を持っていない方の手が空を切る。きゅっと握りしめた手が何だか寂しくて、覚束ない。
「なまえ・みょうじ、入ります!」
「しーっ」
叱責なら受けよう、責任取るのが上の仕事と覚悟を決め、勢いのままに名乗りながら一歩を踏み出した。同時に、ささやかに声の大きさを咎められる。
一本立てた人差し指が、静かにしろと言っている。訝しげにそちらをよく見ると、余りにも意外な光景がそこにあった。
「やだ、珍しい」
眠っている。静かに、安らかに、規則正しい寝息と共に。デスクの椅子に座ったまま、傾いでいる顔は相変わらずの美貌なのに、閉じられた瞳となだらかに落ちた眉からはいつもの覇気が全く感じられない。
「昨日徹夜してたからなぁ」
「……もうちょっとスケジュール管理してあげたら?」
普段はきちんと止められている襟元がくつろげられ、ラフに開いていた。目元に落としている陰影の深さが、イザークの疲労を物語っている。ディアッカの何でもないような言い方や仕事量を思えば、彼の徹夜続きは珍しいことではないのだろう。
「そろそろ仮眠取るように言うつもりだったんだよ。やっぱ落ちたか」
勿論、ディアッカが悪い訳ではない。寧ろ傍にいるのが彼でなければもっと忙殺されていた筈だ。それでも――眠っていると、彼がまだ少年の色さえ残した二十歳にも満たない青年であることを思い出させた。成人とはいえまだ若年である自分と、彼は同じ年頃だというのに。
「じゃ、俺出直すから。後頼むな、なまえ」
「はぁ!? 補佐はディアッカでしょ!」
イザークに見惚れていたせいで反応が遅れた。さも当然のように上官を平隊員に押しつけ、既にディアッカは部屋の外だ。抗議を試みてはみるものの、全く効いていない。
「そっちのがイザークだって喜ぶだろ。なまえとこには俺から言っとくからさ」
振り向き様に、ディアッカがにやっと笑う。彼の揶揄かうような表情は何なんだろう。名前を呼んでも彼は振り向きもせず、手だけがひらひらと振られていた。
「喜ぶって、何……」
疑問に答えてくれる人間はいない。なまえは腕を組んで部屋の主に視線を向けた。薄く開いた口元から漏れる寝息は乱れることなく、深く寝入っているように見える。
よく眠っているところを起こすのは誰だって気が引ける。それが徹夜明けの感情的な上司が相手なら尚更。しかし、なまえだってイザーク程ではないが一つの班を預かる班長であって、それなりにやることはある。
「ディアッカめ!」
上官を放置して行く補佐が何処にいる。恨み事を呟き、溜息を吐くしかない。男が独り居眠りしていたところで何の問題もないが、これを部下に見られたらイザークはそれこそ癇癪を起こすだろう。それは一番彼の後始末が面倒臭い。
何より、なまえ自身がそのまま彼を置いていける気にはなれなかった。その辺りをディアッカには見透かされているし、だから押し付けられたと自分でも分かっている。
頭の中でこの後の予定変更のプランを練りながら、溜息をもう一度。なまえはデスクの傍に寄り、書類を置いて、非戦闘員用のジャンパーから袖を抜く。
「きっれーな顔」
そっと彼の肩口に触れる。冷たい。今しがたまで自分が着ていた、自分の体温を残した上着を彼に掛けた。
人工灯さえも反射して、白銀は常に輝く。さらさらで、切り揃えられた髪は女の自分も顔負けだ。コーディネイターは容姿が整っている者が多いにしても、彼は正に別格なのだ。
「……眠り姫みたい」
今は見えない薄い青の瞳が彼の意志を乗せて煌き色を濃くする瞬間、なまえはいつも胸を締めつけられてきた。その強さに、惹かれている。ただ、この瞬間平穏に寝息を立てる彼の眠りを守りたくもあり。
「奪っちゃうぞ」
不安に駆られるまま、侵したくもある。普段は全く隙のない人間の隙だらけの姿を、軽率に楽しむような気分にはなれなかった。
「誰が姫だ、馬鹿者。俺は男だ」
彼の腕の付近を彷徨っていた腕をぐっと掴まれ、引き寄せられる。服とフォルダが弾みで落ち、乾いた音がした。儚ささえ滲んでいた寝顔は何処にもなく、なまえのよく知るアイスブルーの瞳が至近距離からこちらを射抜いている。
「な、」
その目が、強い光を湛たたえていると知れて、ひゅっと喉が鳴った。こくりと唾を飲み下し、空いている手を握りしめて、抑えるように胸元に押し付ける。
「何で起きてんのよ!」
物凄くよく寝てると思ったのに。取り繕うことも忘れて思わず出た悲鳴に近い言い訳に、イザークはさも面倒臭そうに、俯き加減なままで後頭部をがしがしと掻いていた。
「やかましい。あれだけ騒いで起きん訳がない」
寝起きは悪くはないが良くもない。頭を軽く二、三度振り、頬杖をついたイザークは顔を顰めている。その隙に早速と離れ、距離を取る。
「で、誰が何を奪うって?」
改めて尋ねられ、肩を揺らしてしまった。ぎこちなくイザークを見れば、傾いだ彼の顔が人の悪い笑みを浮かべている。しゅっと伸びた指先が頬に埋もれている様さえ綺麗だとか、どういうことだ。そして、彼は何時まで寝ていて、何時から聞いていたのだろう。
「空耳じゃないですかね?」
「質問を質問で返すな」
前で結んだ手の中で、指がもぞもぞと動く。聞かれて都合の良いようなことは、何一つ言っていなかった気がする。ぞわぞわとした寒気に身震いをしつつ、きっとこれは上着を着ていないからだとなまえは自分に言い聞かせた。
「貴様はいつもそうだな」
呆れたように大袈裟に嘆息し、彼の綺麗な顔はデスクについた両肘と共に組んだ手の内へと沈んでいった。癖のない髪が滑るように落ちて影が落ち、表情は見えない。
起き抜けの顔色は悪く、イザークが疲れていることに間違いはない。無理やりにでももう少し寝させなければ、このままだと近い内に倒れてしまう。ディアッカに託されたこともあり、使命感が胸を過よぎった。
「疲れてるんでしょう。寝て下さい」
生来生真面目な彼のこと、仕事が残っていては落ち着いて休めないのが本音だろう。しかし、なまえの極力抑揚を抑えた声に本気を感じたのか眉をぴくりと上げただけで返事はない。一瞬の沈黙が二人の間に走り、先にそれを破ったのはイザークだった。
「三十分だ」
ぶっきらぼうに、短く告げる。落ちていた女物のジャンパーを拾い上げ、それを乱雑に掴んだままなまえの前を横切っていく。
「三十分経ったら、起こせ」
彼は、部屋に備え付けのソファに無造作に転がった。取り敢えず休息を継続してくれるようだと察し、胸を撫で下ろす。
「あとで、遅れた報告書の釈明も聞いてやる」
都合の悪い本来の目的を見事に蒸し返され、言葉に詰まる。短気な癖に浅慮ではないものだから、向かい合う相手としては本当にタチが悪い。
「それはごめんって……」
他に誰もいないと分かっている隊長室で、以前のように砕けた言葉遣いに戻っていく。成績の良い同期は自分とは違う色の隊服を着るようになり、隊を率いるようになって、今の二人は前と同じではいられない。
「貴様は、そこにいておけよ」
隊服と同じで、立場も全く異なってしまったのだ。実際、なまえがイザークに会うのは本当に久し振りのことだった。
楽な姿勢を探すように、ごろりと転がったイザークはがら空きの背中を見せている。真っ白な隊服が目に眩しい。
「はいはい。逃げませんよ、隊長」
イザークのことだ、規律違反には厳しく叱責が下るだろう。逃げたいが、やはりそうもいかない。茶化すように言い返すと、イザークは小馬鹿にするように鼻を鳴らしただけだった。
「お前がいると思うと、俺も見失わずにすむ」
普段よりも一段低くて小さい声は、他に音のしないこの部屋に驚くほどよく響いた。何を見失いたくないの、とは聞けなかった。彼が大切なものを、なまえに重ねているのだということだけは確かだった。
「……何処にも行かないよ」
なまえもソファの端に腰を掛けた。彼の膝が自分の太腿に当たっている。少しだけしか触れない。自分達は今はそんな距離感でいいのだろう。
「ずっと、ここにいる」
触れあった熱が僅かに身じろぐ。その距離を、この先どうするのかはまだ決めていない。何だ、今までと余り変わりはないな、と自分で自分に呆れ、ふっと口元が緩んだ。
「ブランケットいる?」
「いらん。これでいい」
「私寒いんだけど」
「なら、その辺の俺のでも着ておけばいいだろう」
「いや、返し――」
「ごちゃごちゃとやかましい! 俺は寝る!!」
他人の上着に頭を埋めるようにして、イザークは疲れからかすぐに寝入る。緑色のジャンパーから覗く銀色が、ひどく愛おしい。
なまえは笑みを零し、手の掛かる上官に毛布を掛けた。