#02:conceit (3)

 風呂上がりにジンジャーエールで一杯やっていると、スマホがぶるぶると震え出した。
 画面に表示されているのは知らない番号で、こんな時間に掛けてくる番号を知らない知人はいただろうかと訝しがりながら様子を見る。暫く放置しても鳴り止まないので、これは非常識な知人かと思い直してなまえは通話ボタンを押した。
 
「はい」
『みょうじか』
 
 誰かわからない不審さ。名乗るにははばかられて短く電話に出ると、これまた短く、苗字だけが呼ばれた。声音はやや硬い。つい先週聞いた声だが、思わず眉を顰める。
 
「何で私の番号知ってるんですか」
 
 ポアロでも、勿論警視庁でも、なまえは番号を教えた覚えはない。きちんと言葉を発したことでなまえ本人と確認できたのだろうか、電話越しの降谷の声が和らいだ。
 
『いくらでも方法はあるだろう』
 
 降谷は公安警察なのだから、調査自体が簡単なのは分かっている。何なら風見に聞けば一発だ。
 だが、そういう問題ではない。
 
「ありますけど、普通本人に聞かずに調べないですよね」
『番号を交換し合うような時間があったか?』
 
 ああ言えばこう言う。
 安室の人当たりの良さとはうって変わり、降谷はなまえに対して言いたいことを隠さない。こっちが本来の彼の性分か。
 
「……何なんですか、こんな時間に。私今湯上り一杯でリラックスタイムなんですけど」
 
 口で勝てる相手ではないことはもう分かっている。元々頭がいい上に口まで達者になられたら、もうどうしようもない。
 
『男に言う台詞か。寝酒は程々にしておけよ』
「ジンジャーエールです、ご心配なく」
『………』
 
 手に持っていたジンジャーエールに口を付ける。レモンの酸味とジンジャーシロップの辛さ、強い炭酸。刺激が喉を刺すようにヒリヒリして、熱くなって、まるでお酒みたいだ。
 
「月曜から飲めませんよ」
 
 予想外の答えだったのか口籠った降谷に、少しだけ勝ったような気がして気分が良い。
 この先忙しくなりそうな予感しかしないのに、酒を残して出勤なんてできない。まあ、確かに異性に入浴後の自分を想像させるようなことは言うべきではなかったかもしれないが。
 
『職務に忠実で結構なことだな。どうだった?』
「え?」
『新しい部署、問題なかったか』
 
 今度はこちらが言葉に窮する。この人は本当に厄介だ。そんなことを聞くためにわざわざ電話して来なくていいのに。
 
「降谷さんが風見さんに無茶振りしてるのと、風見さんの私への采配がザルな位ですかね」
 
 今日一日だけでも分かった。降谷と風見の関係性と、その上下関係の強さも、風見の性分も。
 降谷は公安部に席もない癖に、風見を電話一本ですぐさま呼び出せるのだ。自分のずるずる出てきてしまいそうな感情は押し込めて、なまえはわざとらしい位に明るい声で言ってやった。
 
『そう言ってやるな。今まで、気にせずに頼れる補佐がいなかったんだ』
 
 ああ、やっぱり。想像はしていたものの、降谷の言葉で確信を得る。風見は一係を頼らないのだ。
 
「降谷さんがいるから?」
『そういう質問はナシだ』
 
 ちょっと掛けてみたカマは真正面で受け止められてしまった。肩を竦めて、質問は諦めた。降谷と風見の関係は気になるものの、早々教えては貰えなさそうだ。
 
「事務員にどういう指示を出せば自分が楽になるのか分からないんですね。少し気の毒です」
『そう言える君だから、風見も少しは楽になるだろう?』
 
 補佐をする事務職の立場としては、可能な限り仕える相手の助けになるべきだと思っている。
 それでも、闇雲に何でも渡せばいいものではない。権限も立場も違う、意思疎通も儘なっていない現状では、なまえができることに限度があるのだ。
 
『助けてやってくれ。僕は仕事を増やす専門だから』
「そこは減らしてあげましょうよ」
『無理だな』
 
(この人、本当に風見さんに容赦ないな……)
 
 降谷がなまえを公安にやったのは、確かに都合が良かったのも多いにあるのだろう。けれど、もしかしたら、風見にとって補佐を付けてやりたかったんじゃないかとさえ思う。降谷は風見に厳しく、甘さはまるでないもの、言葉の端々に信頼と優しさを感じる。
 ちびちびと飲むジンジャーエールは、しゅわしゅわと爽やかな泡の爆ぜる音を立てる。口に含んで、嚥下する音も向こうに聞こえているんだろうか。
 
「初日だから、心配してわざわざ電話してくれたんですか?」
 
 飲み物に気を取られて、ついうっかり口を滑らせてしまった。しまった、こんなこと、聞くつもりじゃなかったのに。
 
『さぁ?』
 
 一瞬だけ間を空けて、降谷は笑い声を漏らした。多分素のその反応に、どきりと心臓が跳ねる。
 
「降谷さん、あんまりそういうことしちゃダメですよ」
 
 部下の部下というだけの関係なのだから、心配なんてしないでいい。
 どうかそのまま放っておいて、彼の片鱗を見せないで欲しい。
 
「女は、勘違いしてたい生き物ですからね」
 
 ただでさえ鮮烈な印象を残す人を、無視できなくなる。
 彼をよく知らないからと名前を付けて来なかったこの感情は、このままにしておくべきだ。殊更降谷に対してなんて、自覚すべきじゃない。
 
『君は違うだろ』
「……さぁ?」
 
 そんなにスマートな女じゃない、何処にでもいる普通の女だ。
 実家を出てもう何年経っただろうか。恋人もいない、当たり前のように人恋しくだってなる。それを隠すのが少しだけ上手いだけの、ただの女だ。
 
『問題なかったならいいんだ。風見より僕の方が言いやすいかと思っ――』
「それは降谷さんの自惚れですね。風見さんの方が話しやすいです」
 
 彼の好意も気遣いも、嬉しいけど、嬉しくない。
 降谷の思い上がりを即座に断じる。話しやすさは付き合いの長さではなくて、心の近さだ。
 
『みょうじ?』
 
 なまえの様子が変わったことに降谷は気付いたのだろう。名前を呼ばれる。一度早鐘を打ち始めた心はなかなか治まってくれない。
 
「問題ありません。お気遣いありがとうございました。おやすみなさい!」
『おい、みょうじ……っ』
 
 皆まで言わせず、問答無用でスマホのボタンを押す。聞こえた通話の切れた音にほっとして、スマホをぎゅっと胸に抱いた。
 気安いなら、きっと風見の方が余程。降谷との会話は、本心を隠そうとするから、物凄く疲れる。
 
(話しやすくてたまるか、降谷さんの馬鹿!)
 
 頭がいい癖に分かってない。分かられたくもない。やり取りの余韻を残す機械が、どうにも子憎たらしい。
 溜息を一度吐いて、なまえはスマホをクッションに向かって放り投げた。