「どうして私を公安に行かせるんですか?」
なまえは一番の疑問点を率直にぶつけた。
安室はそれこそ不思議そうになまえを見返している。用度品だらけのスチールラックに背中を預けているだけなのに、こんなに恰好いいなんて。何をしても様になるとか反則だ。
「原因は分かりますが、理由に確信がありません」
彼に聞こえる位ワザとらしく溜息を吐いて見せる。
公安と聞くと同時に思い出したのは安室と風見だ。だが、それとなまえが公安に行くことの関係はよく分からないままだった。一体人をどんな千里眼とでも思われているのやら。
「ああ、そうか。そうだな……体の良い口封じと対象者の保護かな」
「えぇ……?」
あながち間違いでもなかった自分の予想にがっかりする。見てしまっただけで、こんな扱いを受けるのは納得がいかない。
「末端でも警視庁の人間です。軽々しく公安のことを喋ったりしません」
おまけに、正職員でこそないがなまえだって一年以上を警視庁で過ごしている。他の民間企業よりも守秘義務が厳しく、公安なら猶更のこと。自分がそれを漏らすような女だと評価されたのは何だか癪に障った。
「まあ、そうだろうな」
「だったら――」
不満を言い募ろうとした処を、すっと伸びてきた手に制される。安室の視線は、瞬時に険のあるものに成り代わっていた。
「君を放置する訳にもいかないんだ」
放置しておいてくれ、何なら保護とかも要らない。口封じやら監視やらがセットで付いて来るなら、心底ご免被りたい。そんな気持ちが喉から出掛ったのを、理性で押し止める。
「どうしたって要観察対象者になる。こんなことで人員を割きたくない」
「要、観察……」
まるで自分が悪いことをしたみたいな言い草だった。
なまえはちょっとばかり不用心にも、夜に人気の少ない所を歩いていただけだ。ましてや、こんなこと、なんて軽んじられるような物言いをされるようなことはしていない。
「みょうじ、さんは……任期も直に来るし、君に人件費を使うより有用だと思って」
安室は一瞬なまえを何と呼ぶのか迷ったのだろう。結局、喫茶店よりも距離を取った名字で呼んだ。
何なのだろう、さっきから。悲しいとか怖いとか色々な感情がない交ぜになって、気持ちが悪い。今は、そう――とても、悔しい。
▽
「安室さん」
なまえが、降谷を呼ぶ。
先程までのやや遠慮した感じがない。まだ名乗ってすらいなかったことを思い出し、降谷だ、と口を挟むと、なまえは如何にも機嫌悪そうに、はぁ、とぞんざいな相槌を寄越してくる。
「私は降谷さん? が公安の人で、風見さんより偉そうな人だなって思っただけです」
「間違っちゃいないよ」
彼女はゼロという組織そのものを知らないのだろう。だから正解に辿り着けていないだけで、大事な部分はしっかり見極めている。その勘の鋭さには恐れ入るし、本当、ちょろくない。
「偉い人に比べれば非正規の私なんて、ちっぽけで大したことないでしょう。それでも、お給料頂いてる以上、仕事はきちんとしてるつもりです。降谷さんは、私に価値がないって、言ったも同然じゃないですか」
(そこまでは言ってない!)
どうしてそうなった。表にこそ出さなかったが、内心降谷は焦り始めていた。
声のボリュームが小さくても、なまえは明らかに昂ぶっている。今の今まで彼女が感情的になったことは一度もなかったと言うのに、何が彼女の琴線に触れたのか、降谷には理解できなかった。
「公安の人はそりゃあ大変かもしれないけど、私だって違う課で働いてます。比較して有用とか、失礼過ぎです」
彼女の怒りの感情は、苛烈だった。思いきりきつく、降谷を睨み付けてくる。その強い意志を何処に隠し持っていたのか不思議な程。
「監視しやすいからって私を公安に移して、ろくな仕事もさせる気ないんでしょう」
彼女の憤りは、仕事に行き着いた。
そこに帰結するのかと拍子抜けもした。捲し立てたせいか肩で息をするなまえが可笑しくて、つい声を出して笑ってしまう。
「何で笑うんですか!」
馬鹿にして、と更に噛み付いて来るなまえは、まるで小動物のようだ。
ポアロで見てきたなまえはコーヒーを嗜む落ち着いた女性であり、子供っぽさはなかった。今の今までなまえは年齢相応の大人だったというのに、今はどうだろう。
「いや、すまない。揶揄ってる訳じゃないんだ」
思い出すと何だかまた笑えて、漏れぬように喉を鳴らす。ここで笑ったら、彼女はきっとまた機嫌を損ねるだろう。今だって不満が身体中から滲み出ている。
思っていたのと違う。今まで知らなかった新しい一面が次々出てきて、それがことごとく乖離しているのが面白い。
「仕事、好きなんだな」
正直に言うなら、なまえの言う通り、非常勤である彼女を侮っていた。
賃金と席の保証さえしておけば、と思ったのは間違いではない。それをひっくり返してきたのが先程のなまえで、定められた期間であっても仕事を全うしたい自負があるのだと理解した。
用度課の守り人なんて馬鹿げた名前を付けられるだけある。きちんと仕事をする真っ当な女性だ。
「……やるならきちんと取組みたいだけです」
自分の気配が、彼女に声を掛けた時よりも緩んでいる自覚はある。自然と浮かんでいた表情は、なまえの雰囲気も和らげさせたらしく、まだ憮然としながらも、少し落ち着いたようだ。
「僕は警視庁には余り来ない。君のことは風見に言っておく」
本来なら、降谷の本庁は警察庁だ。警視庁の面々に顔を知られるべきではないし、そもそも今日ここに居ること自体が異例のこと。風見には後で小言の一つでも言われるかもしれない。
「風見さん?」
「直接の上司は彼だと思ってくれていい」
なまえの反応からして、彼女の中で風見は然程悪い印象ではないらしい。公安であることのプライドが高く、他と軋轢を生みがちな風見に対する評価としては珍しい。降谷がなまえと会うことは早々なく、指揮監督は風見に任せる他はない現状、喜ばしいことではあるのだが。
「……仕事も、君に見合うものを渡すように言っておくよ」
なまえの仕事振りを見てみたかったのだが、残念だ。自分の複雑な感情の原因におおよその当りをつける。告げた言葉は、まるで安室のように柔らかかったかもしれない。
▽
「いい加減話し過ぎだな。そろそろ戻るか」
降谷は腕時計を確認して、話を切り上げた。時間にすればものの十分も経っていないが、誰かに見られてはいけないのだろう。了解の意を込めて首肯する。
「みょうじ、好奇心でこれ以上首を突っ込むなよ」
顔を上げた時には、彼はもう背を向けていた。去り際の言葉は自然となまえに入ってくる。
「みょうじ、か……」
あの瞬間、降谷の中でなまえは部下になった。喫茶店常連の『なまえさん』から、彼の部下の『みょうじ』に。
前よりも近くなったのか、遠くなったのかは、まるで分からなかった。