――目が合った瞬間、誤魔化せないと思った。
喫茶店の店員の時に着ることのないスーツ。ぎりぎり他人の距離を保ちながら、風見と一緒にいた所を見られてしまった。
彼女にあの夜出会ったのは、本当に偶然だった。瞠目してしまったのは自分のミスだ。
明確に交差した視線、ほんの一瞬の降谷の動きを、なまえは見逃してはくれなかった。降谷と風見を視界に捉え、知己を見つけた親し気な雰囲気は、見る間に訝し気な視線に変化していく。
互いに何も発することもなくその場を離れたのは、仕方がないことだったのだろう。
▽
「彼女を知っているんですか?」
邂逅は、ものの数秒。なまえが降谷の偽名を呼ぶことさえなかった。その数秒の視線の交わりだけで、風見は何かを感じたらしい。
「ポアロの常連だ。風見こそ」
彼女との関係を簡潔に言うと、風見も目を丸くした。
どうやら風見もなまえを知っているようだった。言うことを躊躇うかのように一呼吸置いている。
「総務部の……非常勤ですよ」
風見の返事もまた、短く明快だった。
しかし、降谷はその内容に思わず眉を顰めてしまった。
幾つかの顔を使い分けているが、自分が何者かを悟られない為にも、それぞれの交友関係が重ならないように気を付けてはいたのだ。
なまえは安室がポアロでバイトを始める前からの常連だとは聞いていたが、降谷自身、特に彼女に注意を払っていた訳ではない。彼女が来店するのは月に二~三回で、足繁くと言うには程遠く――ただ、徐々に挨拶以上の会話を交わすようになっていた程度だった。
若い女性の大半は安室の容姿やら何やらで黄色い声や視線を向ける中で、彼女は珍しくフラットな人だった。後ろから透けて見える好意を気にすることなく接することができるのは、安室にとってはとても気楽だった
「今年に入って新任の主事が大口契約をまとめたんですが、サポートについていたのがみょうじです」
普通のOLですよ、となまえは言った。
確かにOLであることは間違いないのだろうが、特段公安以外の人間関係に重きを置いていない風見が彼女を知っていることに驚いた。つまりは、入庁間もない新人に毛が生えた程度のなまえが無理難題を見事にこなした、ということか。
「たまたまだろう?」
入庁間もないとは言え、彼女は年の頃からすれば中途採用だろう。社会人経験もあることだし、新卒のひよっこ主事より仕事ができてもおかしくはない。
「その後も何件か。ついた渾名が用度課の守り人」
何だその恥ずかしい呼称は。とんだネーミングセンスの無さに、降谷に胡乱げに見られた風見は自己弁護に走る。
「俺が言ってる訳じゃないですよ」
三十路に入った大の男がそんな感性を持っているとは流石に思っていない。最初に言い出した人間が誰かは知らないが、色々拗らせているらしい。何処にでもいそうな二十代女性に向けるには、呼ぶ方だって居たたまれない。
「よく風見が知っていたなと思っただけだ」
「自分達の備品でも、彼女に世話になりましたので」
「何を頼んだんだ?」
自分達、ということは警視庁の公安部の調達もしたのか。口をついた素朴な疑問に、風見の視線が泳いでいる。
「……ガタが来ていたキャビネを修繕してもらいました」
「ああ、あれか」
稀に足を運ぶ警視庁の方のオフィスにある、古びたキャビネット。
古びて立付けの悪くなったそれは、開けづらいものの使えなくもない。血税を以ってして、買い直すか否かは非常に微妙なラインだった。
おまけに格納されているのはゼロの作業班の書類が主で、大多数の人間は使わないときた。
長年放置されてきた棚を、新調ではなく修繕で手を打ったのか。その判断は――降谷が意図しているものと同じかどうかは分からないが――悪くない。
「多かれ少なかれ、世話になってる人間は多いですよ」
「なるほど」
なまえは、なかなかどうして、仕事のできる方だったらしい。非常勤の一年足らずの期間で、風見にそう言わしめるようになるのは容易ではないだろう。
「降谷さん?」
「どういう人間か、興味が沸いた」
今までポアロで見てきた彼女に、容姿や能力で目立って優れた部分はなかった。安室にとってのなまえとは、人付合いが程々に上手い、気軽に話せる常連でしかなかった。その認識は、今日の彼女と風見の話で改めねばなるまい。
彼女は安室がただの喫茶店の店員でも探偵でもないことに気が付いている。否、確信している。その勘の鋭さも、出過ぎずに仕事を確実にこなす様も、降谷は好ましいと思った。
「……みょうじは非常勤ですよ」
「知っているさ」
でも、警視庁の人間なんだろう。
言外にそう匂わせた降谷に、風見が何とも形容し難い渋い顔をする。上司に対して戒める訳にもいかず、けれどなまえへの同情は隠さない。
「俺は降谷さんが怖いです」
誰にも掬い取って貰えない風見の溜息は、闇夜に溶けていった。