指先でスイッチを押すと、真っ暗な空間が明るく染まる。なまえは薄暗さに慣れていた目を眇めて、勝手知ったる場所を進んだ。
自分のヒールの音だけがやけに響いて、耳が痛い。
梱包されているコピー用紙の紐を切ろうと屈んだ時、人の気配がしてざわりとブラウスの下の素肌が粟立った。
(やっぱり、これだったか)
先の突然の『内示』宣言の心当たり。
腰を上げて強い視線の方を振り向くと、想像した通りの人がそこに立っていた。あの日の夜と同じ、切り刻まれそうな眼差しがこちらを向いている。
「何とお呼びすればいいですか?」
なまえはこの顔を知っている。けれど、この人は知らない。
返事のない彼に、行きつけの喫茶店の店員の名前を呼びかける。
「安室さん」
明るい場所で『彼』と会うのは初めてだ。
髪も目も、綺麗な顔立ちも同じ。それなのに、身に纏う雰囲気に、安室のような丸みがない。
笑顔さえも、自分の知る安室のものとは別物だった。顔は笑っているのに底冷えしそうな冷たさに、なまえは、自分の心臓が痛い位にきゅっと引き締まったように感じた。
「誰のことか分からないな」
「そうですか」
別人ならそれでいい。
目の前のこの人物の髪も目も、綺麗な顔立ちも安室と同じだったとしても、違うというなら何も言うまい。そちらの方が自分にとっても平穏に生きていける。
「世の中三人は同じ顔の人がいるって言いますからね」
彼と同じような人を喰ったような笑顔を貼り付ける。
自分の心の中を、彼に読まれなければいい。ささやかな願望を隠して、忘れて下さい、と短く言った。
そんななまえの態度が意外だったのか彼は目を丸くして、ややあってから細めた。
「追及しないんだな」
「何をです?」
恐らく彼にとって、なまえが安室ではないことを知るのは都合が悪かった筈だ。ましてや公安刑事と一緒にいるような『何か』であることなんて。
「もう、気付いてるんだろう?」
それなのに、どうしてだろう。彼は、そう。楽しそうだった。
「――なまえさん」
ああ、もう答え合わせしちゃうんだ。なまえは、心底残念に思った。できれば、彼の虚像を消して欲しくはなかった。
恋なんて甘やかで大層なものじゃない。ただ、彼は無関心でいられるような人でもなかった。
優しくて、気が利いて、頭だって良くて、器用に何でもこなす。なまえは彼の綺麗な笑顔を見るのが好きだった。
真剣に恋する程、彼のことを知らない。注文を聞かれて、オーダーしたものを持ってきてもらうだけの関わりでも、なまえにとってはその時間を楽しみにしていただけだ。
それももう、きっとお終いなのだろうけれど。
「暴くのは好きじゃないんです」
大好きだった時間は、この先訪れることはないのだろう。それが、少し切ない。なまえは微笑って答える。
抱いていた幻影に、心の中で静かに別れを告げるのは、やはり少し寂しかった。