#01:breakdown (1)

 ――警視庁一般職非常勤職員。
 
 
 それが自分の肩書きだ。
 漢字ばかりで長ったらしいから偉そうに聞こえるかもしれないが、職場が警視庁本部なだけでただの非正規でしかない。
 
 不況の煽りをまともに喰らってリストラされて、たまたま目にした臨時職員に応募したら合格した。安定していると思ったのがそもそもの間違いで、契約期間は短いわ給料安いわ。
 1年半足らずの契約期間も大半が過ぎ、身の振り方をそろそろ真剣に考えないとワーキングプアまっしぐら。庁内の人間関係がまずまずで知己に恵まれた位しかいいことがない。
 
「どうかしましたか、みょうじさん?」
 
 漏れた溜息を耳聡く拾い、年若い主事が苦笑する。伏目がちだった視線を上げ、なまえはプリンターをうんざりしたように見やった。
 
「プリンターの紙が切れましたね」
 
 リズミカルな音を立てていた機械は、今は止まっている。出力が終わるのを待っていた束の間の考え事から、なまえは現実に引き戻されていた。
 
「倉庫まで行って、用紙運んでくるのが億劫で」
 
 それは、大体なまえの仕事なのだ。
 正確にはなまえの仕事ではないが、他の人は往々にして最後の1箱を開けても見ない振りをする。最後に使った人が持って来い、とは思うが非正規の下っ端が言える筈もない。
 
 主事は民間の平社員にほぼ等しいが、なまえは自身をその更に下に置いている。非正規には非正規の、弁えるべき自覚が必要だ。やむなく立ち上がると、離席を言い置いて席を外した。
 
 
 

 
 倉庫に向けた廊下はひんやりとしている。そして、少し暗い。何日かに一度は通るこの廊下は他の場所よりも人が少なくて、仕事の合間の頭の休憩に丁度いい。
 
「ああ、みょうじさん」
 
 名前を呼ばれ、俯き加減だった顔を上げる。
 直属の係長から更に上の課長だった。裏方な用度課だからか、本庁の課長の割には柔和な人となりで知られている。
 
「課長。お疲れ様です」
 
 通り一辺倒な挨拶をして、頭を下げる。
 係長ならともかく、課長は早々話すことのない『偉い人』だ。こちらが挨拶するのは当然としても、廊下ですれ違ってあちらから声を掛けられるような間柄でもないのに、珍しい。
 
「お疲れさま。みょうじさん、急なんだけどね」
 
 落ち着いた声音の主は鷹揚に応えた。そして、この中年に差し掛かった上司には珍しいことに、やや間を取ってからまた口を開く。
 
「来週から公安に行ってもらうから、そのつもりで」
「!? ……私は、あと二ヶ月で任期です」
 
 急遽告げられた内示に、思わず眉を顰める。
 礼儀は頭から抜けていた。上司の更に上司にこんな口の聞き方。けれども、聞いたことがない。あらゆる意味であり得ない。
 
「公安部に非常勤が異動なんて――」
「繁忙期の人員貸出。よくあることだし、所属は変わらないから安心して」
 
 言い募ろうとした異存は畳み掛けるように潰される。
 納期がある訳じゃあるまいし、公安に繁忙期って何だ。そもそも警察の中でもエリートがなる公安に、どうして非正規のなまえを放り込むのか理解に苦しむ。
 
「…………」
 
 
 心当たりは、ある。一つだけ。
 
 
 薄い金髪の、笑顔の似合う青年を頭の片隅に思い出す。同時に、目つきの鋭い眼鏡を掛けた公安刑事も。
 あの夜の邂逅は、本当に偶然だった。
 
 
 
(……安室さん?)
 
 
 
 行き付けの喫茶店の店員が、庁内で何度か見かけただけの公安刑事と何故一緒にいたのだろう。
 普段の人好きのしそうな笑顔は何処にもなく、一緒にいる刑事と同じような鋭い目つきだった。
 
 その視線は間違いなくなまえに向いていて――。
 
 一瞬で、射貫かれた。
 
 
 
「どの道、公安から言われたら出さない訳にいかない」
 
 納得なんてしない。しない、けれど。
 拒否権なんて最初からありはしない。総務の備品管理と公安、庁内の力関係は圧倒的にあちらが上なのは自明の理。例え課長と言えどもひっくり返すことはできないだろう。
 
 そもそも、彼がそこまでしてなまえを守る理由はない。社会人数年目、リストラ経験まであるなまえは、社会への諦めも程よく身についている。
 目前の上司に気付かれないように、そっと溜息を飲み込み、下唇を微かに噛む。もういい、自分はどうせ流されるしかできない。
 
「残りの期間、ご迷惑を掛けないように努めます」
 
『内示』宣言からすぐさま恭順の意を見せたなまえに、課長は満足げに微笑った。
 
「みょうじさんはよくやってると聞いてる。次も更新できるだろう、あちらでも頑張って」
 
 誰だ、この人を柔和だとか優しいとか言った輩は。流石本庁内でそれなりの昇進をしているだけあって、やはり狸だ。
 なまえもまた、にっこりと微笑んで見本のようなお辞儀をした。