「いらっしゃいませ」
ドアを開けると優しいウィンドチャイムの音が響く。同時に出迎えてくれたのは、女店主の穏やかな声だった。
茶器を棚に片付けていた彼女は客を迎える為に笑顔で振り向き――僕を見て、笑顔をすぐさま引っ込めた。
「……バーボン。何しに来たの」
最近、少し時間に余裕がある時には彼女の店に足を運ぶようになった。ジン配下の彼女がカモフラージュに経営する茶藝店が、真っ当な店のはずがない。
裏で手広く取引をしている実態を知っているのに、さて彼女の人柄か。不思議とここに来ると落ち着いてしまう。
「そんなにしょっちゅう来ないで欲しいんだけど」
こちらはドアの開閉と同時に鳴る涼やかな音を楽しんでいるというのに、返ってくるのはつれない台詞だけだ。カウンター越しに彼女を見ると、布巾で茶器を磨いている。
「常連客に酷いお言葉ですね」
「貴方みたいに目立つ人は、常連にならなくて結構」
店の雰囲気が壊れる、と彼女は視線を四方に向けて苦々しげに呟く。なるほど、一組だけいる若い女性客が、此方をちらちらと覗いている。例えるなら、穏やかなセピアの空間が瞬時に桃色に染まってしまったかのような――ゆっくりと茶を楽しむ雰囲気ではないことは、確かだ。
ましてや、以前どうして中国茶なのかと尋ねた時の答えが、コーヒーや紅茶なんてメジャーなものを扱って人が増えても困るから、だと言うのだから尚更だ。まぁ、組織の立場としては正解だろう。
「はは。隅で大人しくしてますから」
この空間を台無しにすることは本意ではない。ただ、時間を遣り繰りしてまでも来たかった。
「バーボン、貴方暇なの?」
「まさか。そんな訳ないじゃないですか」
冷たい視線に貫かれるも、乾いた笑いしか出て来ない。暇だなんて、冗談でも言ってみたい位に多忙だとも。
彼女に明かすことのできない三重の生活は、公安と組織の方の仕事が見事に被っている。昨日は完徹、その前もまともな睡眠時間は取れていない。
「……ご注文は?」
理由はどうあれ、僕の状況を的確に察したらしい彼女は溜息を落として、渋々客として扱ってくれた。
希望通り、カウンターの一番隅。他の客からは見えないような席を示され、ほっと息を吐く。
「お任せします。疲れました」
クッションの効いた椅子に腰掛け、チョイスさえ丸投げする。陽射しの当たる席は暖かくて、壁に頭を預けるとあっという間に眠気が襲ってくる。いいんだ。此処は、そういう空間なのだから。
僕は、重力に負けて落ちて来る瞼をそのまま伏せた。
「バーボン」
短く、一度だけ。柔らかく、小さな声で呼ばれた名前に、睫毛を震わせる。
「……どれ位、眠っていましたか」
「十四分」
長いとも短いとも言えない時間だ。深い眠りは今後に差し支えるが、短くては意味がない。僅かな微睡みだが、頭はすっきりと晴れている。
尋ねられてすぐに答えられたのは、彼女がカウントしていたからに他ならない。必要且つ確保できるぎりぎりの頃合いを計ってくれていたのだろう。いつの間にか他の客はいなくなっていた
カウンターから出てきて僕の傍にいた彼女が、テーブルにコースターを敷き、ガラスのコップをその上に置いた。
「明前西湖龍井ミンチェンシーフーロンジン。茶葉が落ちきったらどうぞ」
中国茶への造詣は深くない僕にとって、それは呪文のようだった。置かれた透明で分厚いグラスの中で、黄緑の茶葉が踊っている。くるくる回りながら、ゆっくり、ゆっくりと底へ落ちていく。
すんと鼻を鳴らす。徐々に染み出るように薄らと色付いていくグラスの中の液体からは、香ばしい匂いが立ち上っていた。
「あー、…………」
温かい湯気が顔面に触れ、疲労で強張っていた身体が解けていく。華やかさも刺激もない、ほっとする香りだった。力の無い呻きが腹の奥底から出てしまった。
「おっさんみたい」
「ほっといて下さい」
どうせ若くないです。疲れてますし。拗ねた子供のように愚痴を零す。くすくすと笑われてしまうと、へそを曲げたくもなる。椅子を後ろに引き、カウンターに突っ伏すように身体を預けた。
横に向けた顔の目前で、茶葉は静かに揺れている。僕は自分が何者でもない、異次元にいるような気さえした。
「慰めてあげようか」
そっと、頭の上に小さな手が触れる。柔らかい女の手が僕の髪をくしゃりとかき混ぜて、何度か宥めるように跳ねている。バーボンである自分には、この穏やかな時間は他では得難い。
「遠慮しますよ。女性にいいようにされるのは嫌いなもので」
「変なプライド。馬鹿馬鹿しいね」
そのままずぶずぶと浸っていたくなる。欲していて、けれどそれはとても怖いことだ。
「どうせなら鳴かせたいんです。貴女が相手だと、余裕無くなるから嫌なんだ」
失礼にならない程度に加減した力で彼女の手を払い、掴む。上体を起こしながらぐっと引き寄せると、彼女の上半身がバランスを崩すようにして倒れ込んでくる。
「褒めてる?」
「さて」
色を含ませた僕の言い方に、彼女は上目遣いで聞いてくる。身体の関係を結ぶことが大した意味を持たないこの組織で、僕達の関係もとても曖昧だ。
「僕に最善のものを提供してくれるのは、君だけです」
一息吐ける時間も、お茶も、他のものも。他ではありえない。そこが、たまらない。
「へぇ?」
「だから、僕はここに来てしまうんですよ」
腕を支えてやると、彼女はすぐに姿勢を立て直す。するりと脇腹を撫でていく手付きは、穏やかな昼の女店主のものではない。
「……迷惑な客だから、時間外にしてくれない?」
挑戦的な態度をお互い隠さない。睡眠欲を満たせば、他のものも欲しくなる。体力が少しばかり回復した今、相手が彼女なら余計にそう思う。僅かに俯き加減になれば頬先をくすぐる髪を、指に巻いて弄んだ。
「おや、妥協してくれるんですか」
迷惑だと言い切るところは変わらないらしい。苦笑混じりに先を促すと、彼女は僕の頬にそっと手を伸ばした。親指が皮膚を撫でる感覚が、ぴりぴりとした刺激を与えてくる。
「私も、バーボンが気の抜けた所見るの嫌いじゃないから」
彼女が今日初めて見せた微笑みは、少し後ろ暗さが滲んでいた。そこは好きと言って欲しい。ねだると、彼女は触れていた掌越しにキスをくれた。