what you can’t

 登庁して自席に着くと、普段は使われていない隣のパソコンの電源が入っていた。珍しいこともあるものだと思いながらも、自分の仕事が然して変わる訳でもない。自分のパソコンを立ち上げながら、なまえはデスクの引き出しに私物を入れたミニバッグと大袋のチョコレートを放り込む。
 
「おはよう」
 
 久々に涼やかなテノールが耳を撫でた。声の方に視線を向けると、いつもと同じ姿の降谷が椅子に掛けるところだった。
 
「おはようございます。何かさせて頂くことはありますか?」
「いや、普段通りでいい。何かあれば声を掛ける」
 
 彼はパソコンのロックを解除しつつ、僅かな時間さえも目まぐるしい勢いで書類を捌いていく。無駄な時間は全くない、相変わらずのハイスペック人間だ。
 
「分かりました」
 
 直接何か言って貰えると思ったのにこれか、と少しだけがっかりする。彼が長期の潜入捜査に入るまでは補佐として接するのが通常で、彼が隣にいるのは当たり前だった。今は短い電話やメッセージだけで飛んでくる指示も味気なく、叱責されることもなければ褒められることもない。
 
 本庁からいない人間の補佐をするにはどうしても限度があり、手足となれる風見が羨ましい。考えたところでどうにもならない思考を切り上げて、自分の朝のルーティンに取り掛かる。
 
「おはようございます!」
「おはようございます。どうぞ、義理です」
「うわ、ありがとうございます」
 
 続々と出勤してくる同僚達が自席の傍を通る度、一目で義理と分かるチョコを渡していく。反応はお互い生温い。長年の慣習を自分が止める勇気もなく、向こうもお返しを買いに行くのも手間だろうに。しかし、職場の大半を占める男どもは男どもで、一つも貰えないのは味気ないからこれでいい、などと言う。何なら空いている席に大袋をパーティー開けにして放置しておいてやりたい。
 
「……おい」
 
 大方の面子が揃ったか、もう始業定刻間近という頃に、降谷は声を掛けてきた。何か振る仕事でもできたかと横を見ると、彼は明らかに不満そうにしている。
 
「何で他の奴らには朝一で渡すのに俺には何もないんだ」
「はぁ?」
 
 一瞬、何を言われたか分からなかった。彼の言葉を頭の中で咀嚼して、一つの結論を導き出す。
 
「欲しいんですか? 一袋三百円のファミリーパック」
 
 バレンタインという今日この日に、なまえが他の方々に渡したのは義理チョコだ。確かに降谷には朝から一切何も渡していない。そもそも今日彼がいたのは本当に偶然で、彼にチョコレートを渡す頭はまるでなかった。
 
「いや、別に」
 
 即座に返されたにべもない返事に、でしょうね、とうそぶく。大女優と高級レストランで会食するような顔と、カフェで料理の辣腕を振るう顔を持つ降谷のことだ。口うるさく舌の肥えた御仁に渡せたものではない、と引き出しの中の黒と金のパッケージの菓子を思う。
 
「食べない人に渡すのは勿体ないじゃないですか」
「…………」
 
 降谷は、人から渡されたものを食べない。初めて行くような店でも、初めて会う人との食事でも、同様に。極秘任務に就いて以来その傾向はより顕著になった。
 
 なまえが今日持ってきた菓子は、凡庸でチープだが美味しい。手元にあればつい手を伸ばして、いつの間にか無くなってしまう位には自分も好きだ。当たり前のことを当たり前のように言うと、降谷は眉間に寄っていた皺を更に深くした。
 
「まぁ、食べるとか言ったら幻滅ですけど」
 
 公安警察の職務上仕方がない部分があったとしても、彼ほど徹底している人間を他には知らない。実際、同僚達は今日小腹が空けば自分が渡した義理チョコでも食べるに決まっている。
 
「誰が言うか」
 
 彼は、受け取りもしない。忌避の対象には自分も例外なく含まれているのだから。その癖に何故、そんなことを言うのか。
 
 わざわざこんなイベントの当日に来て、貰うつもりは最初からなく、渡させることも許さない。それでもこの日に登庁した彼が、何だかいじらしいとすら思えてしまった。
 
「引き出し、開けたらどうです?」
 
 どうせ開けてないのだろう、と踏んで小声で呟いた。見つけて精々、驚けばいい。
 
 言われるがまま彼が開いた引き出しには、無造作に放り込まれたカフリンクス。黒蝶貝の装飾がきらりと照明を反射する。こくり、と彼が息を呑んだ様が見て取れて、ざまぁみろとばかりににやりと笑う。
 
「……君の、そういう所はどうなんだ」
 
 普段から冷静な彼の声が、掠れている。いつ来るか分からないけれど、もしかしたら来るかもしれないと思った。口にするものは渡せない、でも、身に着けるものなら。昨晩遅くに、そっと忍ばせておいた細やかな女心になんてことを言うのか。
 
「来年は、チョコレート位は渡したいんですよね」
「ったく。……善処するよ」
 
 言外に早速と終わらせろと告げる。降谷は苦笑して、艶やかに煌めく漆黒を懐に愛おしげに仕舞った。

2021 Valentine day